2006年12月28日
浸水営古道−5
【写真説明】左写真は帰化門社のパイワン族頭目の石板屋遺構の一部。大漢山林道脇に案内板が据えられそのすぐ傍にこの遺構があるので判り易いが、一般のハイカーが観察できるのはこの遺構だけである。同写真右を入っていく道路があり、その左右に藪に覆われてはいるが平坦地と判る場所がある。学校、駐在所、原住民住居があった場所だが、藪が高く深く分け入っていく勇気はない。大漢山林道沿いにある原住民族部落の遺構をこのように容易に観察できる場所はここだけである。右写真は、旧力里社(リキリキ社)と説明されることもある大漢山林道上にいまだに残る小村落の一軒。実際リキリキ社の中心(頭目の住んでいた区域)はこの小村落がある場所より標高の低くかなり林道から外れた所にあるが、私自身はいまだに辿り付けていない。
旧古道沿線上には嘗て、力里社(日本時代表記:リキリキ)、古里巴保諾社(日本時代表記:コリバボノ)、出水坡社、姑仔崙社の六つのパイワン族部落が点在していたが、現在一般のハイカーが大漢山林道沿線上、又は登山歩道上でこれら旧部落遺構を簡便に観察出来る場所は残念ながら一箇所もない。林道、又は登山歩道からかなり外れている為、古道を専門に研究している方か原住民族の方の同行が必要になる。唯一例外は、パイワン族頭目の住居跡が大漢山林道下部にある帰化門社案内板のすぐ横で観察できるが、この帰化門社は、前述した浸水営事件の後、駐在所襲撃の主力であったリキリキ社の勢力を殺ぐ為に同部落の一部が強制移住させられた場所だ。>(メルマガ「台湾の声」2006年3月6日掲載分の一部を改編)次回へ続く...
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