2012年11月24日

蘇花古道−20(大南澳越嶺段−3)

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【写真説明】左写真は南側入口に立つ指導標、全段4キロが示されている。中央写真は古道景観の一つ。右写真は、私が行き当たり引き返して来た地点にあった南澳嶺西南峰花崗岩基点、標高305メートル。正面に彫られた文字は「圖根補點」(図根補点)、「補」の文字の判読が難しい。その反対側の面には「總督府」と刻まれているはずだが、当時は未確認、日本時代の遺産である。

さて、いよいよ大南澳嶺に掛かる。その前にこの清代開鑿の蘇花古道の生き残り部分―一般のハイカーにとっては嘗て150キロあったと謂われる全段の中で唯一林務局が整備し歩ける段―の物理的な概要は以下の通りである:

*全長=4キロ
*南側入口海抜=40メートル
*古道と旧蘇花公路(旧省道9号線であり且つ日本時代の「臨海道」)との交差点=南側入口から1キロ
*南澳嶺西南峰=海抜305メートル、南側入口から1.3キロ
*古道最高点海抜=680メートル(南澳嶺北峰標高720メートルの東側)、南側入口から3キロ
*全段歩行時間(南口→北口)=約二時間

当時のスケジュールの関係上、持ち時間一時間で上り下りを完了させなければならないという制約があり、西南峰基点まで至り急ぎ引き返して来た。つまり全段の凡そ四分の一のみの踏査で終らざるを得なかった。それでも、古道と旧省道9号線との交差点まで辿り着けたのは非常にラッキーだった。というのは、この戦後舗装された旧自動車道は今や古道に変移しつつある過程にあり、何かしら生き物の成長を見るような逆説的な錯覚に襲われたからだ。又、この交差点より古道は急に勾配を上げるのであるが、その急坂を僅かばかり登った場所に全く予想していなかった西南峰基点を発見し、引き返す踏ん切りを付けられたのにも喜んだ。

南側入口の案内板のタイトルと副題に曰く『古早的産業道−脳丁道;浪速崎与酒保道』(草創期産業道路−樟脳道;浪速崎と酒保道)。脳丁とは樟脳製造に携わる人のことで、清代、日本時代を通じ、脳丁牌と呼ばれる木製の手形が発行されており、この一段の古道は従って脳丁道とも呼ばれると云う解説である。更に、同案内板に次の説明も付加されている。即ち、同古道は、清代末期に後山北路としてまず軍用道として開鑿される以前から、南澳−蘇澳間の生活物資交易の為の唯一の道路であった。日本時代になり、塩、煙草、酒等の生活物資が専売制になり官制下に置かれると、これらの物資を闇で交易する為にも同古道は使用されたので「酒保道」とも呼ばれた。

さて、だから、前々回掲載した写真にあるモニュメントの籠に入っているのは酒瓶(写真が小さく判り難いがビール瓶が殆ど)なのだが、読者の方々は上述の説明の最後の一文の意味が本当に理解出来ただろうか?つまり、「酒保」とは何のことか?という意味である。

この案内板を見るまでに私の知識にあった「酒保」とは、旧日本帝国軍の基地、艦船等内に設けられた交易所、もっと判り易く言えば、売店のことである。ウィキペディア日本語版では「フランス語でkantine、ドイツ語でFeldschenke、Soldatenschenkeであり、つまり兵隊酒屋くらいの意で、洋式陸軍制度採用の時にこれを“酒保”と翻訳したのが語源である」と説明されている。自衛隊では今でも同じ単語を使っているとのこと。日本時代の台湾では、対原住民警備道上の駐在所に設けられた売店もそう呼ばれていた。但し、闇物資云々の下りがあるので、大南澳越嶺段の「酒保」はこの売店の意味ではしっくり来ない。同案内板は中国語と英語の両方で表記されているが、「酒保」の英訳は“Liquor Protection”になっている。つまり、酒に代表される闇物資を保護する、即ち、密輸の意味である。本当にそうかな?なら、「保酒」の方がもっとしっくりしそうだが。台湾では「酒保」という単語の用途は日本時代に相当根付いていたはずで、やはり交易所の意味ではないかな?

ところで、現代台湾、そして大陸で、酒保とはバーテンダーのことである。纏めると、「酒保」には英訳すれば、canteen、smuggling、bartenderの少なくとも三つの訳語があるというわけだ。(続く)
posted by 玉山 at 14:09| 台北 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 蘇花古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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