2012年11月10日
蘇花古道−18(大南澳越嶺段−1)
【写真説明】左写真は、これまでは気付かなかった古道指導標が宜蘭県蘇澳鎮朝陽村内に立てられていた。それが左写真。中央写真は、宜蘭県蘇澳鎮朝陽村のメイン・ストリート朝陽路沿いにある天后宮、同写真左側奥の小道の突き当たりが蘇花古道大南澳越嶺段南側起点である。右写真は大南澳越嶺段南側起点。
最後のD案である。
二代目林務局国家歩道案内サイトでは、第一代サイトのように蘇花古道は全長150キロというような乱暴な紹介ではなく、その150キロの中から一箇所だけさらりと切り取って紹介してある。二代目サイトの中ではその部分のみの紹介に抑えている。。。「大南澳越嶺段」―全長4キロ、高低差約500メートル強の一段である。
これまで二回現地に足を運んだが、二回とも時間が十分に無く駆け足の探訪で、僅か4キロ全部を未だに歩け仕舞いでいる。一回目はこの4キロの段の南側最下段を今年1月に、二回目、今年8月には今度は北側の最高点は車で進入出来るはずだと踏んでそうしたのだが失敗した。この二回目がD案である。
この越嶺段の下段南側起点である蘇澳鎮朝陽村は、「蘇花古道−8」で紹介したように日本時代は浪速(なにわ)と呼ばれた場所である。二回とも実際の古道歩きは兎も角、十分に時間を確保しここの小さな漁港で揚がる海鮮を舌鼓を打った。数年前に最初に朝陽村を訪問し、海岸沿いの亀山(標高181メートル)に登った際は、村の中心を走る朝陽路から少しだけ入った場所に、越嶺段入口があることは全然知らなかった。というより、その時点で林務局で整備が完了していたかどうか?いずれにしても、是非歩いてみたい一段だった。
上掲右写真右側に写る二階建ての建物は謂わば朝陽村公民館の役割を担っているのだと思うが、この一階に「浪速文史工作室」(下掲左写真)が入っている。日本風に言えば、浪速文化歴史活動センター、初めて同地を訪れた際は覗いてみることすらしなかった。今年1月に同地を訪れた際入ってみて驚いたのは、入口向かいの壁に大きな絵地図(中央写真)が掛かっており、何とそれが日本時代の朝陽村、当時の浪速村の絵地図であることだった。その絵地図『日據時代「なにわ」地区分布概況図』の下段に附された解説の全(拙)訳は次の通り、日本人が浪速という日本の地名を持ち込んだ事実からすれば少々奇妙な説明になっているが。()内は筆者註。。。
朝陽の俗称が「娜娘仔」(なにわ=浪速)である由来:以前は本地域は貨物の海運を主たる生業(なりわい)としており、海への出口の波(浪)は高く激しく、漕ぎ出す船はその波の速さに合わせなければならなかったことから、「浪速」と呼ばれた。日本語発音は「娜利哇」だったので、「娜娘仔」という名になった。台湾光復後、「浪速」は日本化の証だった為、又、東に面した太平洋海面から上る朝日(朝陽)は燦燦と美しく、明媚な景色故、朝陽社区と改名することになった。
尚、D案は越嶺道北側最高点付近に対するものであったが、南側最下段の入口には下掲右写真のように古道進入禁止の警告板が掲げられていた。警告文冒頭の「蘇拉」台風とは7月末に発生した台風10号「サオラー」(Saola)のことである。この古道も台風の被害を被っていたのだ。(続く)
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック