【写真説明】浸水営古道の最高点、嘗ての高雄州と台東廳との境界付近。撮影者の背中が高雄州側、ここから台東方面へ急な下り坂となる。境界付近には恐らく招待所の類の建物があったのではないかと思わせる平坦地がある。この写真は午後撮影されたものだが既に霧が上がってきて湿っぽく薄暗い。ここら一帯の気候の特徴である。ここでは道路幅が非常に広く三メートルぐらいある。道路右脇に当時のままの路側石が残る。
浸水営古道が長らく利用されてきた最大の理由は実際は地理的な要因が大きく、元々は西と東を結ぶこの交易道が中央山脈の最低部を横断していたからに他ならない。
日本時代、この古道は原住民族警備道として警備する側の日本人として重要な位置にあったのは、台湾総督が時折視察したことからも覗われる。警備道の最高点は標高1,430メートル、現在の西側登山歩道入り口から40分程入った場所で当時の高雄州と台東廳の境界なのだが、台湾総督視察の折は、高雄州知事とその随行官員がこの境界まで迎えに出たそうだ。今現在実際その地に立つと、当時の台湾総督がよくぞ台東からこんな所まで登ってきたものだと驚かざるを得ないが、幹線でもあり標高が比較的低い為色々な意味で安全だったと云うことだろうと考えられる。
又、別な意味では、1914年(大正3年)、当時総督府が「南蕃」と呼んでいたパイワン族に対する武器没収政策に抗した古道沿線の三部落の原住民が浸水営駐在所を含む三箇所の駐在所を襲撃し警官とその家族を虐殺、これに対し総督府は軍艦二隻、野砲四個部隊、兵隊・警官千五百人強を投入、これら三部落を焼き払うという事件(「浸水営事件」)が、総督府をしてこの地域を特に警戒させたのだとも考えられる。
戦後、枋寮から更に南に下った枋山から太平洋側に抜ける南廻公路(省道9号線)が建設された後は幹線としての機能を喪失、急速に荒廃の一途を辿ることになる。更に、この古道の丁度東西中央に位置する大樹林山(標高1,687メートル)は戦後、大漢山と改められ、これより西側に古道に沿う形で軍用訓練道を建設、更に、この山の頂上にレーダー基地が設置される。これが現在の大漢山林道(屏東県道185号線)で、古道西側はほぼ完全に今はコンクリート製のこの林道下に埋没することになった。つまり、大漢山林道も実はその殆どが浸水営古道そのものなのである。>(メルマガ「台湾の声」2006年3月6日掲載分の一部を改編)次回へ続く...
2006年12月15日
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