【写真説明】左写真は旧霧ヶ岡神社入口、左側が参道、右側が中横、清境農場方面に至る。中央写真は、鳥居と階段、鳥居左隣は「山の郷」小館というホテル。右写真は、新装の徳龍宮、廟後方の松に注意。本文記事下掲載の写真は、階段途中に置かれた灯篭。今回と次回の記事を読み易くする為に霧社市街図を起こしたので参考にして欲しい。
タロコから中横を大きく南西側に逆戻りする。
「合歓山越嶺古道−3」の冒頭で、「合歓山越嶺古道は、西側は霧社を発し、佐久間峠を最高点にして、東側起点であるタツキリ(立霧)渓が刻んだ壮大無比の天嶮、タロコ渓谷入口を結ぶ約120キロの区間で、現代の自動車道である中横霧社支線(48キロ)プラス中横本線東段(70キロ)は大凡嘗ての古道に沿っていると言っても差し支えない」と書いた。そう、合歓山越嶺古道の西側起点は霧社と言って差し支えないかもしれないが、日本時代、霧社を含む一帯の大都市だった埔里を起点と考えるのが正確だ。
いずれにしても、日本人にとってみたら霧社とはまず霧社事件であり、台湾人も近年の映画「セデック・バレ」のお陰で、最初に想起するのは同じはずである。
一方、私にとっての霧社は中横を辿る際に便利な中継基地なので、よく立ち寄る。現在の霧社のメイン・ストリートは、北側が仁愛郷郷公所、南側が警察署・消防署に突き当たる直線四百メートルであり、この間に何でもある―山行の為の食料・飲料補給、警察署での入山証取得、朝方同地を通過するなら、必ず台湾の朝飯を大型のムササビの剥製が壁に張り付けてある店で食う。この飯屋の斜め向かい側の店で売られている豆乾は、豆乾自体の肉厚が厚く且つ柔らかく、間に具がこってり挟まれており格別に旨い。
私自身はこれまで殊更に日本時代の霧社の縁(よすが)を探し当てるようなことをしたことがない。又、今後もそのような予定は無い。但し、今年の夏、同地を通過した際、期せずして神社跡に行き当たった。それが、文字通り、灯台下(もと)暗しみたいな場所にあったので実に仰天してしまった。一体全体、この地に何年通い詰めたのか?それで、今回の記事を起こすことにした。
件(くだん)の飯屋で朝飯を食っていると、同行者がこの近くに神社跡があるらしいと言い出した。その同行者とてもう何度もこの地に足を運んでいるのだ。ふーん、霧社事件が起こったぐらい日本人が多く住んでいたのだから、神社跡が残っていても不思議ではない。で、何処に?店のおばさんに聴いたら即座に知らないと言われたが、おじさんに聞いたらすぐに教えてくれた。メイン・ストリートの北側突き当たりを指し、消防署の脇に付いている小道をそのまま辿ればよい、車で入れる。。。その入口の部分から中横は少しだけカーブし登りに掛かる。この入口を正面に見ながら何度も同じ場所を通っているのに―これが灯台下暗しの意味だ。
飯を喰い終り、消防署脇の小道に入る。松の大木が並んでいる。神社跡、今は徳龍宮という廟は小高い丘の上にあるが、その裏も更に高い丘になっているが、ずっと背の高い松が並ぶ。。。日本人が植えた松、こんなに集中しているのに何故今まで気付かなかったのだろうか?(続く)
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