【写真説明】旧好茶国民小学校跡の三枚。その前身はコツアボアン蕃童教育所。左から、校庭、国旗掲揚台、旧校舎。部落の入口から入りそのまま進みやがて校庭跡に出食わすとその校庭の突き当たりに一基の石碑がある。その石碑の裏に廻ると、「昭和九年」の文字が刻まれていたので、日本時代に建てられた碑であることだけは認知していた。
同古蹟に二度訪ねた折、二回ともこの碑は見ているのだが、一体何の為に建てられた碑なのか?台湾総督府文書でもひっくり返してみるような労を厭わない限り判らないだろうと端から諦めていた。最近になりコツアボアン社の記事を起こすに至り、台湾サイトの中を逍遥する内に遭遇したのが、例の『霧台、好茶古道与聚落研究報告書』である。この論文の21ページに於いて、無傷だがとうに日本人に忘れ去られた一介の碑の由来が見事に掘り起こしてあった。
下掲左写真は碑正面、「南幡重助記念碑」、戦後ペンキを塗布されたが碑、碑文共に損傷箇所無し、右写真は碑裏面、「昭和九年六月二十日死亡」。故人の冥福を祈る為に上記論文から以下を抜粋した(旧漢字は現代漢字に改め):
姓名:南幡重助。
経歴:高雄州巡査部長、コチヤボカン駐在所。
本籍:岩手県岩手郡太田村大字上太田第二十三地割字下法丁四九。
歳数:四十一歳。
死亡原因:昭和9年(1934)6月20日自殺。
同論文は、南幡氏自殺に関する由来については自殺当日から二日後の台湾日日新報の記事に依っている。妻が朝食を準備中に拳銃で眉間を貫いたとある。遺書も無く、自殺の原因不明。勤務中の事に付き、殉職扱いにされたが故に碑が残ったのだろうが、「殉職」碑ではなく、何故「記念」碑なのか?或は、有志、部落民、故人の徳を偲ぶ為の碑を建立したのか?そこまでは論文にも記述無し。但し、校庭の隅に建てられたというのは意味がありそうだ。というのは、日本時代、台湾総督府の謂う蕃地の駐在所巡査は同時に蕃童教育所の教師も兼任していたからだ。つまり、碑自体には南幡氏の死亡期日のみが刻まれ、その碑の建立期日が彫り込まれていないので、この碑が何時建てられたかは実は判らない。そこに「記念」の謎が隠されていそうだ。
ところで、「南幡」というのは珍しい姓である。日本語サイトでざっと検索してみたが、どうも現代日本人の姓としては皆無のようだが。「なんばた」、或いは「みなみはた」か?(続く)
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