2006年12月08日
浸水営古道−2
【写真説明】屏東枋寮郷新開村には浸水営古道の西側最下段入口がある。その付近の農家の中に清代の軍駐屯所、[土>嵌]頭営盤(かんとうえい)が残る。但し、現場に一切の案内板が無いので一般のハイカーが探し出すのは難しい。村の中に天台宮という村の規模には不釣合いな大きな廟があるがその廟隣の農家の敷地内にあるのを、古道入口の案内板上の一枚の写真を元にやっと探し出した。営盤は今はこの農家の倉の礎石になっている。清代、日本時代、戦後の三代が順番に重なっているのが観察できる非常に珍しいものだ。写真右が残存している営盤の一部、写真左はその拡大である。一番下の粗い石積みが営盤、その上の整然としたレンガ様のものが日本時代のもの、倉は戦後建てられたものだそうだ。
浸水営古道は台湾の古道中、最も長命だった古道と謂われている。即ち、現在の西側最下端の登山歩道入り口の案内板には、約五百年に渉り台湾海峡側と太平洋側を繋ぎ中央山脈を横断する最南部の唯一の幹線として機能し、その間プユマ族、パイワン族、オランダ人、漢人、平埔族(漢化した原住民族)、日本人に拠り利用されたという説明がなされている。
この古道が専ら原住民族の交易道として利用されていた当時、プユマ族はパイワン族、アミ族と比較して人口が少なかった割には王権が強く、これら二部族はプユマ族に対し進貢を義務付けられており、その間、この古道はプユマ族の管理・保護下にあった為、台湾海峡平野部に居住するマカタオ族(今現在は平埔族に分類される)と漢人が安全に太平洋側に移動出来たと云う。その後オランダ人が入植、この古道沿線上でも原住民族との間で衝突を繰り返していたが、鄭氏がオランダを駆逐して以降は再度この古道にも平和が回復、原住民と漢人の交易が更に盛んになり枋寮はその交易基地として栄えたそうだ。
清朝は牡丹社事件(1871年、明治4年)以降、当初の消極的な台湾経営から積極経営に転換、中央山脈を跨ぐ「開山撫蕃」道を開鑿し軍道として整備していくが、この古道上にも駐屯地を築いていく。この為、この古道上に於けるプユマ族の勢力は急速に減退、その後、日本の台湾領有以降は対原住民族警備道としての整備が進む。清朝に依る開山撫蕃道が日本の台湾領有後殆ど利用されず忽ち荒廃していった中で、唯一幹線として太平洋戦争後まで利用されたのがこの浸水営古道で、その意味でも長寿を誇ったわけである。>(メルマガ「台湾の声」2006年3月6日掲載分の一部を改編)次回へ続く...
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