【写真説明】浸水営古道の西側起点、屏東県枋寮の海岸に小さな公園があり、その中に土盛が作られ円盤の石碑が埋め込まれている。碑の真ん中に「乃木希典」の名が見える。台湾海峡に臨む同じ海岸線、現在の枋寮国民小学校付近に、嘗ては「故乃木将軍上陸記念碑」があった。戦後四十四年後に作られたこの公園は上陸記念碑を代替したことになるが、私が訪れた時は公園名を記したプレートは引き剥がされていた。
浸水営古道は三つの動植物自然保護区を併せ持ち台湾の数ある古道の中でもその沿線の樹相が季節に拘わらず最も美しい古道の一つである。加えて、西側(台湾海峡側)登山口から入ると、東側(太平洋側)に向かい緩やかに下っていくので、その間十数キロあるが、一般のハイカーでも楽に一日で歩き通せる。又、最近では南台湾の非常に人気のあるマウンテンバイクのコースの一つになりつつある。更に、古道沿線とその周辺に原住民旧部落、清代、日本時代の遺跡・遺構が豊富に残っているという特徴も併せ持つ。2005年暮れ、行政院林務局はこれらの遺跡・遺構を紹介する立派な案内板を各処に設置、この古道の散策と探索を更に興味深いものとしている。実は、浸水営古道は台湾の古道中、最も古い歴史を有しており、これがこの古道の最大の特異性だ。
浸水営古道は、高雄から墾丁国家公園へ南下して行く際に必ず通過する屏東県枋寮郷を西側起点として、中央山脈の最南部を横断して太平洋に面した台東県大武郷に抜ける往時は全長約50キロの「幹線」だった。日本統治時代以前は西側起点にあった清朝軍駐屯地の名に因んで「三條侖道」と謂われていたが、日本の台湾領有後は、古道最高点近くにあった同じく清軍駐屯地「浸水営」に因んで、パイワン族に対する「浸水営越嶺警備道」と改称され、古道となった今でもその名をそのまま使っている。「浸水」とは文字通り水に浸るの意で、この古道は台湾最南部の恒春半島の北端を横断しており海洋からの空気の流入が激しく、一年中霧が発生し易く湿っぽい土地柄であることに拠る。お陰で、この古道周辺は山蛭のメッカ、山蛭とは何か知らないハイカーは不必要に怖がることになる。
余談だが、枋寮は後に第三代台湾総督になる乃木希典(当時中将)が、下関条約締結(1895年、明治28年)後、清軍残存部隊の討掃の為に上陸した場所で日本時代は上陸記念碑があり、戦後廃棄された。1999年(平成11年)、その上陸記念碑があった場所とは少し異なるようだが、枋寮郷公所は海岸縁に小さな記念公園を作った。公園内の土盛の上に円盤がはめ込まれておりそこに乃木希典の名前と共に日清戦争終結から最後の台湾に於ける討掃戦までの経緯が簡単に紹介されている。枋寮駅の南側の一角は、現在日本風に言えば町興しの一環として芸術村として整備されているが、三年程前そこを訪ねた際、枋寮を紹介したパンフレットを見ていて偶々この公園の存在を知った。。それらしき公園はすぐに見つかったが、私が訪ね当てた当時は公園入り口と土盛側面にあったはずの公園名を記したプレートが明らかに故意に引き剥がされており、果たして上陸記念公園なのかどうかはすぐに判らなかった。因みに、後の日露戦争に於ける乃木大将と敵の将軍ステッセルの所謂「出師営の会見」(1905年、明治38年)の「営」と浸水営の「営」とは同義、軍隊の駐屯地を意味する。
(参考)「故乃木将軍上陸記念碑」の当時の写真は行政院文化建設委員会「国家文化資料庫」のウェッブ・サイトで閲覧できる:
http://nrch.cca.gov.tw/ccahome/
(「国家文化資料庫」>「老照片」>「乃木将軍」で検索)
>(メルマガ「台湾の声」2006年3月6日掲載分の一部を改編)次回へ続く...
2006年12月01日
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老眼にやさしいデザインで、助かります。我家の若い女子学生にも好評です。すっきりしていて良いとのことです。
南の方は一度列車で通っただけで殆ど知りませんが、先月に訪ねた台東の友人のご主人の両親が水底寮のかたでした。今は台東の友人宅で暮らしているんですが、数年前までは水底寮に住んでいたそうです。原住民ではないのですが、母上は75歳の今も日本語が不自由なく話せ、日本のテレビが大好きだそうです。浸水営古道のことを話したんですが、伝え方が悪かったのか、分からない様子でした。ただ、彼女の家に貼ってあった台湾全土の地図の古道にあたる部分の中央部辺りには浸水営〇(不明)の字がありました。
ブログのデザインに関するコメント有難うございます。前の富士山と月のデザインは私個人はとても気に入っていましたが、見る人の目を疲れさせるデザインだというのは判っており一部の人には不評だろうというのは想像していたので替えました。確かに字の大きさが大きくなり読み易くはなったと思います。背景も緑で昔の黒板のイメージかな?
1945年前後に既に青年・成人であった人は水底寮と台東との間を今の古道を伝って往復していたはずで、その母上も必ずや古道を通った経験があるはずです。人だけではなく牛も交易を目的に水底寮から台東側に持ち込まれていたと聞きます。今の古道の両端、水底寮側と台東側の一部は県道198号線になっており、地図によってはこの間の古道の部分が点線で結ばれており将来自動車道で繋ごうという意図が見え隠れしているようで不安です。地形的には自動車道を通すのは十分可能です。但し、金次第なので当分は大丈夫でしょうが。(終)
ktkrさんも立ち寄られたと思いますが、枋寮駅の周辺を整備して作られた枋寮芸術村の中にこの芸術村のセンターともいうべき枋寮文化生活促進会の事務所があります。郷土史館です。ktkrさんのような鉄道ファンであれば誰でも興味が持てるかと想像します。そこでイベント、講演会を行っているのに加え、図書の閲覧も出来るようになっています。そこに置いてあった枋寮周辺の観光案内にこの公園の案内がありました。以下のサイトがこの芸術村の公式サイトですが、この公園の紹介は出ていないようです。もともとは、「浸水営古道博物館」なるものが枋寮にあると聞き捜し歩いたのですが、最後に紹介されたのがこの事務所でした。
http://www.cultural.pthg.gov.tw/F3s/index.jsp
(終)
月夜にススキ(すみません。あの弧線をそのように見てしまいました)。満月の夜に一人で古道を歩いたらくっきりとした影ができて・・・・ などと思って見ていたんです。しかし、如何せん、ディスプレイの画面というのはただでさえ読みにくいのに、老眼にとってはちょっと厳しいので、今の文章の画面は助かります。
緑の黒板・・・・ なんだか白墨の匂いがしてきそうな気がします。
西さんが試行錯誤を繰り返して古道を探索している様子を想像するととても楽しそうですね。こちらは楽しんでいる西さんを楽しませてもらいます。
西さん、きのこ狩りですか。山があるんだから当然ですが、山は豊かですね。何時だったか友人の母上達と山に行った時、蛙取りができるというので、「私も!」と言ったら「蛇が出る」と言われてしまったことがありました。