2012年07月21日

ルカイ族秘道−1

Kodou-926.jpg Kodou-927.jpg
【写真説明】これまで紹介した旧社を上から見下ろした写真が無いかどうか?を探した。というのは、過去二回北大武山に登頂した際、頂上付近から同方向を写した記憶があったからだ。当時はバタヱンとかチャリシとかの知識は皆無だったので、偶々写っていればラッキー!というわけだ。ということで一枚あった。下パイワン社を直接見下ろしたものが左写真だが、今回の記事とは余り関係なく、前回までの記事の補完的な写真だ。足元から落ちる稜線は旗塩主山、旗塩山に繋がるが同写真の右側視界外である。その稜線奥、山肌に白い点と線の集合している部分が下パイワン社。写真最後方は、隘寮渓と荖濃渓が合わさり高(雄)屏(東)平野に流れ込む。右写真は、「崑崙拗古道−1」や「日経ギャラリー」第2回目の台湾古道シリーズに掲載した写真と同位置から同方向を異なる日時に撮影したもの。右から南大武山、北大武山、霧頭山、そして以前掲載の写真との違いは同写真左端に明確に富士山の山容を呈した井歩山―阿猴富士―が写り込んでいること。

今回も含め数回に渡り取り扱う秘道は、屏東県霧台郷阿礼部落(シャデル社)と同郷(旧)好茶部落(コツアボガン社)を結ぶ連絡道(旧理蕃道)である。この間道はハイカーには殆ど歩かれないという意味で秘道であるし、前回記事掲載のダイヤグラムをご覧いただければ判るが、両部落の落差が酷く、阿礼から好茶に下るだけであればまだいいが、これを折り返してくるとなると実に難儀で、ハイカーを遠ざけている。

そして、モーラコット台風で、この二つの部落も壊滅的な打撃を受け、この間道も歩ける状態のまま残存しているのかどうか?全く見当が付かない。その意味でも、ますます秘道と化していることになる。

阿礼部落は、モーラコット台風以降の災害対策の一環として他の霧台郷内三村(+三地門郷二村)と共に、遥か下方の普通の居住地域である高速道路3号線東側の長治郷内に造成された永久屋基地(「大愛園区長治百合部落」)に2010年春に移遷した。「百合(ユリ)」とは同園にルカイ・パイワン族の部落が同居しているからである。

従って、霧台郷最奥の村であり、霧台郷内の唯一の自動車幹線道路である省道24号線のドン尽きにある阿礼は今や旧阿礼と呼ばれるべきである。他方、既に旧好茶と呼ばれ、原住民族住居遺跡としては台湾で唯一の国定古蹟(正確には、1982年5月制定の「文化資産保存法」に拠る台湾省属第二級国定古蹟)に指定されていたルカイ族発祥の古部落は老好茶と呼ばれるべきであろう。当時の(新)好茶部落も、以前の記事で紹介したようにモーラコット台風で壊滅、その後、瑪家郷内に建設された永久屋基地である「礼納里部落」に移遷を余儀なくされたので、移遷以前の地は旧好茶と呼ばれることになるだろう。国定古蹟の方もネットで見ると惨憺たる状況、廃村に起居していた人々はそれでも住み続ける。

さて、実際の秘道に入る前に余話を一つ。阿礼を後にし急な登りに掛かる秘道は、井歩山と霧頭山を結ぶ稜線の最低鞍部を越えて一気に好茶に向かい降りる。井歩山には嘗て登ったことがある。既に「パイワン族秘道−61」で紹介したように、高雄市街地から見れば日本人ならすぐに富士山を連想する山容だ。実際登るには非常に忌々しい山で二度と登ろうとは思わなかったのだが。さて、迂闊にもこの山が「阿猴富士」と呼ばれていることについ最近まで―前回記事で写真にキャプションを付けた時ですら―気付かなかった。だから前回掲載のダイヤグラムには「井歩山」しか記載しなかったのである。

田代博氏という方がおられる。年季の入った富士山ウオッチャーとでも呼ぶべきだろうか?先月後半に、『世界の「富士山」』を上梓なされた。その執筆過程で小生にも連絡を取って来られ、「能高越嶺古道−17」に掲載したマヘボ富士の写真掲載を許可いただけないかいうことだったので、快諾した。同書掲載の全写真を同氏のホームページで閲覧出来るので、是非ご覧いただきたい。台湾からは四座、その中の一つが阿猴富士である。「阿猴」とは「屏東」の古名、日本時代に行政区画として「阿猴庁」が置かれていた。字面が悪い(「猴」は猿のこと。因みに、「阿猴」の北京語発音は「ア・ホウ」)ので明治38年には[犭侯]から[糸侯]に改変。(続く)
posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ルカイ族秘道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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