【写真説明】 2004年10月のチャリシ社五葉。下パイワン社の射鹿渓を隔てた対岸を登り切るとまず眼に飛び込んで来たのは、左写真の畑地である。次に私の眼を驚かせたのは中央写真に写る井歩山(標高2,066メートル)を後景にしたパイワン族独特の石板屋を形成する石積み。井歩山は高雄市街地から眺めると富士山の山容。右写真に写る畑の中の小道を登るとその両側に本文記事下掲の写真に写る伝統家屋が現役で残る。
下パイワン社までは普通乗用車で入れたし、モーラコット台風以降の訪問記を台湾サイト上で確認出来るので、入山者は確実に増えているのが判るし、従って当時と比べもっと道路は整備されているかもしれない。但し、台風は毎年繰り返し同地域を襲うので、今直近の状況は判らない。いずれにしても、私がまず下パイワン旧社を目指したのは、前回記事でも書いたが、パイワン族の聖山(だと随分後になって知った)旗塩山に登ることが唯一の目的だった。
実はこの辺りの経緯は、以前、ピュウマ社を紹介した時に書いたので参考にして欲しい。但し、この時書いておくべきことを一つだけ忘れている。
「旗塩山」―台湾ならそのまま中国語音か台湾語音で発音する。日本人ならどうか?「はたしお・やま」か「きえん・さん」か?実は、この漢字は「バタヱン」或いは「バタイン」の日本語漢音訳である。差し詰め、湯桶(ゆ・とう)読みなのである。これと同じ例は以前「タナシウ社」=「棚集」を紹介したことがある。こちらも湯桶読みである。山名は同山の麓に嘗て存在したバタヱン社(現代台湾表記は、何故か「高燕」)に因む。
同時に、「チャリシ」の現代台湾表記が何故「射鹿」なのか?私はいまだに判らない。今現在台湾では日本時代の「チャリシ」のカタカナ表記を「茶利西」等の北京語音訳で読ませている。
下パイワン社を出発し、まず射鹿渓底まで下り切り、吊橋を渡り対岸に出た後は、下パイワン社と同じ標高に戻すまでひたすら登る。やがて、チャリシ社跡に出る。忽然と目の前に拡がる乾いた泥と石積みが組み合わさった風景は、最初はそれが何を意味するのか即座に判らずぼんやりしてしてしまった。多分、自身の想像力の乏しさ故、写真でよく見るローマ帝国の遺跡程度を想起していたと思う。やがて、嘗て完全な住居を形作っていた石積みに驚嘆し、それと石ころで区画された畑の組み合わせの妙に甚く感心していた。実は、この石積みは、破棄された住居の壁を形成していたのではなく、新たに積まれた未完成の住居であることに後で気付く。というのは、畑の上にこじんまりとあつまった廃棄された住居群越しに遥か上を見上げると、どうも人がいる。後でその現場に辿り着いた時に、その男性は、新しい住居の為の正に石積みをやっていた。
畑の真ん中を登っていくとその道の両脇に石板屋が数戸ずつ並んでいた。その中の一戸の軒先に洗濯物が干してあるのを目撃し、いまだに人が起居していることに気付かされた。廃棄されていると勘違いしたことを恥ずかしく思った。電気が来ていないことは明らかだったので、そんな生活を幾ら山中とは云え今でも営んでいるということが衝撃的だった。
サイト上で公開されているブログ等のチャリシ社に関する掲載写真を見ていると、これらの石板屋は今は随分外来客にやさしい佇まいになってきている。(続く)
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査里西訪問の事はブログ《パイワン族創世の地へT〜Y》に書きました。
「サイト上で公開されているブログ等のチャリシ社に関する掲載写真を見ていると、これらの石板屋は今は随分外来客にやさしい佇まいになってきている。」と書いたのは、ネット上で公開されている最も最近と思われる2011年4月までの旗塩山山行記録を閲覧していて、必ず一泊200元の民宿が紹介されているのに気付いたからです。これは私が訪問した際は存在しなかったものです。それらの写真を見ていると確かにモーラコットの傷跡は酷く、それでも、全壊というわけではなさそうで、民宿は生き残り?のようです。射鹿吊橋が渡れなくなっているのには驚きました。その意味では、弊ブログ掲載の写真は貴重?いずれにしても、今でも入山は可能ということです。(了)