【写真説明】左写真は屏東県瑪家郷瑪家村入口。中央写真は、下パイワン社とチャリシ社を射鹿渓で繋いでいる吊橋。射鹿渓はやがて、隘寮(南)渓、荖濃渓、高屏渓の順で台湾海峡に注ぐ。右写真は下パイワン社旧社(筏湾、排湾)を、射鹿渓を隔てて対岸のチャリシ旧社(射鹿)直下から望む。白い斑点が住居跡。下パイワン社旧社の写真で残っているのはこの2004年に撮影された一枚のみ。旧社と云っても、周辺には畑地が残されておりそこでの農作業は継続されている為、旧社自体が今しがた引越しの為下山したように錯覚するぐらいに良く保存されていた。当時はまだ山登りに一所懸命で然程には原住民族旧社に対する興味を持ち得ていなかった時分で、撮影対象として興味が湧かなかったからか?それでも旧社内を暫く歩いたり、その際、時折カメラを向けた記憶があるのだが、見事に一枚も残っていない。尤も、この旧社を訪ねるのが目的ではなく、チャリシ社後方に聳える旗塩山(標高1,056メートル)に登るのが目的だった。台湾のサイトを覗くと、今現在は外からの遊楽客を更に意識した保存状態になっていることが判る。
屏東県は併せて九つの郷から成る。即ち、北から;三地門、霧台、瑪家、泰武、来義、春日、獅子、牡丹、満州である。パイワン族は地理的には、最北に位置する三地門のラヴァル系統と、残り南側、恒春半島まで含む地域に居住していたブツル系統に大きく大別される。この内、本ブログでは最初の三郷を除いては各々の郷に現存するパイワン族旧社を紹介してきた。
ところで、これら九郷すべてが2009年のモーラコット台風災害特別指定地区である。
さて、今回紹介する下パイワン社旧社は、瑪家郷瑪家村を抜けた先にある。瑪家郷は、現在、瑪家、北葉、涼山、佳義、排湾(筏湾)、三和の六村から成り、北は三地門郷と霧台郷、南は泰武郷と接する。同郷は前述したようにブツル系パイワン族の最北の居住地ということになる。
瑪家村を除く他の五村は、北は三地門と南は枋寮を結ぶ中央山脈西側山裾に沿って走る屏東県県道185号線(通称「沿山公路」)沿線の平地に移遷してきている。未だ山中に居住し続ける瑪家村は台風の度ごとに水害で孤立してしまうのが常で、その内、平地への移遷が検討され始めるかもしれない。いや、実は、2009年のモーラコット台風以降、災害復旧プロジェクトの一環として損害の大きかった原住民部落の村落移転は計画、実行に移されており、瑪家村は、霧台郷好茶村と三地門郷大社村と共に、同郷北葉村の瑪家農場(台湾製糖所有)に建設された「永久屋基地」を「礼納里(Rinari)部落」と命名し、2011年春に移転が完了している。因みに、「永久屋基地」に関しては、以前、クスクス社の記事の中でも紹介したので参照して欲しい。
現在の居住地すら以上のような事情にあるので、私が以前分け入ったことのある原住民部落の旧社へのアクセスは年々歳々難しくなってきている。それで、今後数回に渡り、私が未だ紹介していないパイワン族、ルカイ族旧社の訪問記を掲載することにした。恐らくこれらの旧社の再訪は今後叶わないと思うので忘れない内に記しておきたかったからだ。
瑪家村(括弧内は現代台湾表記)は、マカザヤザヤ社(瑪家)、パイルス社(白露)、タラバコン社(崑山)から成り、既に中国北宋の時代から存在したと「台湾原住民族資訊資源網」に紹介がある。これら三社は日本時代の地形図にも明記があり、カタカタ表記はそれに拠った。パイルス社は日本時代は上パイルス社とも呼ばれ、既に本ブログで紹介済みの来義郷のパイルス社(白鷺)を下パイルスと呼び区別していたようだ。
瑪家村に至るには、著名な台湾原住民族野外博物館兼レクリエーション・センター仕立ての行政院原住民族委員会管理下にある「台湾原住民文化園区」の料金所を通過していく(少なくとも2005年頃までは)。笠頂山に山登りとか好茶村へ遊びとか言えば当然料金をし払う必要はない。2000年、いまだ台湾原住民族の何たるかを殆ど知らない折に訪ねた限り、十年以上再訪していない。当時は専ら「九族」であったが、今はこの数字が14に変わっているので、園区の展示物も様変わりしている可能性があるし、何より、今は割りと台湾原住民族のことを理解しているつもりなので、系統的な眼で参観が可能かもしれない。
他方、排湾(筏湾)村の方は、下パイワン社、バタエン社、チャリシ社から成り、後者二社は日本時代に、射鹿渓対岸の現在の(旧)下パイワン社の地に強制移遷されたと「台湾原住民族資訊資源網」にある。今回の記事も含め、数回はこれら三社を紹介するが、その凡その位置は、本ブログ内『古道俯瞰図』パイワン族秘道→[2]を参照して欲しい。
尚、下パイワン社があるのだから、当然日本時代は上パイワン社も存在した。笠原政治氏に拠ると以下の通りである:
パイワン・ブツル系統の最も北側に位置するパイワン最古の村落の一つで、現在は屏東県瑪家郷の平地に移住している。ス・パイワンが自称名であるが、当時の日本人はこの村を「下パイワン社」と称していた。ラヴァル系統に含まれる「上パイワン社」に対してそう呼んだらしい。(風響社『幻の人類学者―森丑之助2005』2005年7月出版、228ページ)
上パイワン社の位置は、現在の山地門郷徳文村(トクブン社)北方。
無味乾燥な解説が長くなってしまったが、今回は旧社に関する写真一枚しか掲載出来なかったので、文字を多くした次第。(続く)
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