2012年06月02日

パイワン族秘道−56:大亀文王国−8

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【写真説明】「南蕃騷擾殉職警官碑」―左写真は同碑の全体、中央写真は、小米酒(粟酒)で挨拶並びに慰霊の言葉を述べる筆者、右写真は碑の基壇の石積。本文記事末尾の写真は、同碑の水鉢。碑文は殆ど失われていたが、それ以外の部分に損傷、故意の破壊は見当たらず、南台湾のジャングルの中に忽然と起立していた。

駐在所、教育所、衛生所が集合していたと考えられる官舎群敷地は、ざっと目分量で幅50メートル、奥行き100メートル(多分そうは長くない?)程度、この碑は、我々が入って来た場所からすると一番奥に鎮座していた。石碑正面の文字は最早剥落しているので、実際「南蕃騷擾殉職警官碑」と刻まれていたかどうかは確認の仕様が無い。右側面に「昭和十年XXXXX日建之」の刻字、日付けの数字が並んでいると考えられるXの部分は削られセメントを埋め込んだ跡があり判読が難しい。本記事末文に転載した「台湾日日新報」(原文は日本語)の昭和10年(1935年)6月6日付け夕刊だと、4月10日の建立ということになるのだが、これが正しいとするとどうも碑文の文字は字余りになってしまう。慰霊の対象になっているのは、相澤警視と他巡査四名、碑を建立したのは和田警察課長。

さて、「南蕃騷擾」事件とは何か?鍵は台湾日日報記事中の「大正三年」(1914年)であり、実は本ブログで既に紹介済みであることに、私自身が新ためて気付いた。「恒春卑南古道(阿朗伊古道)−26」で 四林格事件を紹介したが、同年に南台湾で連鎖的に起こった原住民と総督府間の武力抗争が内文社でも発生していたということだ。当該ブログ記事中の四林格をそのまま内文に換えてみれば事件の背景と性格が良く判る。相澤警視と他巡査四名は内文社人に馘首された。

台湾内のサイトだと南蕃騷擾事件に関する記事は少なくない。その内の一つに依ると、該事件は219社、五ヶ月に及んだと謂う。「大正三年」とは、第五代台湾総督佐久間左馬太による五箇年計画理蕃事業(1910年、明治43年〜1914年)の丁度五年目に当る。

もう一つ判りにくいのは、実際の事件発生と碑の建立の時間的な隔たりである。20年もの年月が開いている。これは何を意味するのだろうか?

東京在住のOさんから徳富蘇峰や野上弥生子等の筆に成る台湾紀行文集のコピーをいただき、最近それに目を通す機会があった。それらの紀行文の中で、台湾領有四十週年(1935マイナス1895)に当る昭和10年は台湾各地で盛大に記念行事が挙行されたことが窺い知れる。このような碑建立は、領有後四十年にして往時の台湾発展の隆盛を築く過程で、不運にも倒れた人々に対する一連の慰霊行事の一環と考えられる。

ところで、「最後の未帰順蕃」と呼ばれたブヌン族タマホ社のラホアレ以下二百名余りが、高雄州州庁で帰順式に臨んだのが昭和8年(1933年)4月22日である。これを以って、台湾総督府が積年の課題であった原住民族平定が完了したとされる。凡そ四十年。。。

ここまで書いてきてもう一つ思い出した。「パイワン族秘道−33」で紹介したリキリキ社(旧力里)に残る倒壊した謎の石碑である。これもリキリキ社版南蕃騷擾事件碑である可能性が濃厚だ。但し、こちらの碑の建立は昭和14年であるのだが。(続く)


『臺灣日日新報|19350606|夕刊04版』
高雄州潮洲郡蕃地內文社大正三年。有南番騷擾事件。當時殉職之警視相澤作藤氏。外巡察四名。該墓碑建于內文駐在所構內東邊。該地場狹甚。而附近蕃人三百餘名。及當時反抗蕃人。見蕃社如斯開發。皆相澤警視之犧牲始有今日。欲慰其靈。自發的提供經費及勞役。計畫建殉難警察官碑。自去四月十日興工。日前竣工以和田警察課長為祭典委員長。盛舉揭幕式云。

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posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | パイワン族秘道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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