2006年11月09日
霞喀羅古道−9:李棟山
【写真説明】台湾総督府が李棟山(標高1,913メートル)頂上に大正2年(1913年)に築いたタイヤル族討伐の為の大規模な要塞の正面の門。今では李棟山古堡と呼ばれている。写真左が外側から、写真内側は要塞内部から撮影した入口の門である。内部は五十メートル四方はあり、高さ2メートル強、厚さ約60センチにも及ぶコンクリート製の壁で囲まれている。当時のコンクリート技術の粋を集めたという。但し、「コンクリート」と単純に呼んでいいのかは自信がない。鉄筋も用いられたそうだが、要塞壁の中身はレンガ積みをコンクリートで補強してある。門上部には嘗ては第五代総督佐久間左馬太の筆になる「慎守其一」の扁額が掛かっていた跡が残る(写真左上部)。元々は清朝の開山撫蕃下に於いて李棟将軍が同地に砦を建設したのが始まりである。台湾各地に残る総督府の理蕃関連の遺蹟中、最大規模のものである。
李棟山は桃園県復興郷と新竹県尖石郷との境界にあり、宇老(ウラオ)から馬美道路を辿ること六、七キロの地点が登山口である。現在では登山口は二箇所あり、一箇所は馬美部落(日本時代:マーメイ社)入口付近から登る李棟山頂上にある電気・通信施設の保全用道路であり、もう一箇所はこの入口から更に馬美道路を辿った所にある李棟山荘から登り始めるもので、殆どのハイカーが後者を選ぶ。理由は保全道路という性格上、車なりバイクが入れるようになっている為、山肌を巻くように道路が作られ距離が長いというのが一つ、もう一つは李棟山荘がなかなか味のある手作り山荘で、木材と石材を組み合わせ自動車道を跨ぐ廊下を備えた作りになっており、宿泊、食事も取れる。山荘からの登山道は李棟山へ直登するよう作られているが、途中で保全道路に行き当たるので、きつければ保全道路の方へ乗り換えられる。登山道を辿れば山荘から頂上まで一時間弱で登れる。保全道路の方は当時理蕃道路の一部を成していた可能性がある。
頂上の要塞が建設された大正2年(1913年)というのは、佐久間総督下の「五年理蕃政策」が実施されてから数年後で、台湾北部の原住民族の鎮圧を主眼としていた時期である。李棟山西側に居住するガオガン蕃社群と南側に居住するマリコワン蕃社群に対する攻撃を発動、李棟山を中心とした山間部でこれらタイヤル族との間で激戦が交わされたと謂う。要塞壁には当時の弾痕が残る。要塞の建設に当たり導入された最新建築技術、要塞の規模と堅牢さ、更に、要塞に設けられた31個の銃眼、これらは既に単に支配する側が抵抗する先住部族を屈服させる為の局地戦というスケールを遥かに超えていたことをまざまざと感じさせる。李棟山の頂上に立ち、当時の姿をほぼそのまま残しているこのコンクリートの巨大構築物の中に佇む時、正に戦争そのものであったという思いに囚われる。つまりここは正に古戦場なのである。李棟山の稜線上には今でも当時この戦争で犠牲になった日本人警官の墓が残ると云う。
標高1,900メートルの李棟山は、富士山クラスの標高の山々がひしめく台湾にあっては低い山である。但し、実際内湾からこの山頂まで辿ってくると、当時一体どうやって資材、機材、そして大砲を運び上げたのか、想像が難しい。何度も書いたが、自動車道が通じている現在でも余りにも山深い。李棟山古堡は、日本人をして理蕃とは何だったのか?を考え込まさざるを得ない古蹟である。(終わり)
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とても良い機会ですね。スニーカーで十分登れます。裸足(はだし)でも大丈夫です。台湾にはひたすら裸足で名所を廻っている人がいます。この人李棟山にも登っています。足場はしっかりしています。標高は余り関係ありません。要は登山口と頂上の標高差です。約300メートルぐらいだと思います。週末は多くの家族連れが訪れます。きつくなったら保全道路の方に逃げればいいです。保全道路も最後は頂上に着きますので。但し、出来るだけ早朝に桃園を出発し、昼前には頂上に立つようにした方がいいです。この辺りの霧は相当なスピードで駆け上がってきますので。時間があれば、麓のマーメイ社(馬美村)も訪ねてみたら。(終)
桃園の友人も山がとても好きでが、仕事が忙しくて余り時間が取れないようです。このブログのアドレスを知らせました。
内湾から入って那羅を過ぎるとくねくね道の連続。宇老(たぶん)から左折して間もなく車のすれ違いなどできないような細い道に。李棟山民宿(だったかな?)の手書きの看板は見つけたものの、山荘とは書いてないし、ちょっと心配しながら進みました。そして、終に《李棟山荘》の手書き看板!そこを左に入って、ようやく『自動車道』を跨ぐ廊下のある山荘へ。『自動車道』?想像していた自動車道とは全然違って、ピョン、ピョン、ピョンと3歩跳べば渡れるほどの狭さ。深い山の中に広い道を想像するほうが可笑しいのですが、あの倍ぐらいはあると思っていました。
山荘は古いのですが、本当に面白いデザインですね。丸い屋根がいくつかあってその屋根の中央にはとんがり帽子。原住民風というのでも無し・・・・・。
そこは老人が一人で生活しながら管理をしていて、山荘の中にはささやかな畑もありました。トイレは水洗便器ですが、終わったら一旦外に出てバケツに入った水を柄杓で汲んで流す。あの水はどこに行くんでしょうか?山荘には先客がいて、車が5,6台駐車していました。入山料は一人20元でした。
初めは順調に登っていたのですが、車を運転してくれた友人が辛いという事で、最初に保全道路にぶつかったところでそちらを登りました。木がとても多い山で、気持ちが良かったです。木は殆ど広葉樹、照葉樹ですが、松が何本かありました。友人に「樟樹はある?」と聞いたら道端の葉を取り、その葉を折って匂いを嗅ぎました。樟樹はなかったようですが、似たような葉で杏仁の香りのするものがありました。本当に良い香りで、疲れが緩和されるようでした。
山頂の古堡、山頂に堡塁というのはどういうことなんでしょう。周りが敵だとしたらどうやって物資を運ぶのでしょう。あの点だけを守るということはどういうことでしょう。日本は原住民に対して隘湧線などというものを設置しましたが、あれならこちら側を守るということは分かります。それにしてもあの細い道を堡塁を築くために大量の材料を運び、あそこで守備に当たっていた人々の日常物資等を運んだのは原住民だったのでしょうか。山荘までは内湾から車で一時間あまりなのに。
山荘に下りてから飲んだ山の水で煎れたお茶が、ちょっと不思議な味でとても美味しかったです。なお、シーズンオフだったからなのか食事はできませんでしたし、宿泊はどこに?という感じでした。管理のおじいさんが「何もないよ」という廊下を渡った反対側に行ってみたら打ち捨てられたベッドはありましたが。
台湾での初めての山登り、お昼過ぎに山荘に着いたので、馬美部落には寄れませんでしたが、新しい発見のあった一日でした。
お疲れ様でした。24日は日曜日ですからそれで車5、6台は少ないですね。私が行った時も日曜日でしたが、山荘下の道路は両側車でびっしりでした。
山のトイレ事情はあれこれ詮索し出すとげんなりしますから、余りコメントしたくありません。玉山の最も歩かれている登山道沿いには最新のエコ・トイレが設置されていますが、これは例外中の例外。垂れ流しが基本で、当然地下水を汚染します。事情は日本も同じです(少なくとも20年前ぐらいは)。今は少しはましになっているかもしれませんが。
砲台が築かれた場所は大概高台です。専門家ではありませんので軍事上の利点はよく判りませんが、例えば射程距離が伸びるとか?武器に関しては圧倒的な差があったわけですから、実際の攻撃にどの程度使われたか判りませんが、明らかに威嚇する意味では大きな威力を発揮したと考えられます。李棟山は今は木が生い茂っていますのが当時は丸裸にされていたと思います。どこから物資を持ち上げてきたか?私も同じ疑問を持ちました。新竹、内湾を経て後は稜線伝いに運んできたのでは?私が保全道路と呼んでいるのは嘗て理蕃道だった可能性があります。隘勇線は私の理解では「隔離」線です。隘勇線=理蕃道とは必ずしも言えませんが、恐らく隘勇線を道路化して理蕃道化した部分もあったはずです。(終)