【写真説明】台湾最奥と云われたタイヤル族の村々に通ずる道路がまずここ宇老(ウラオ)派出所(写真左上)で交差する。週末は斯馬庫斯、鎮西堡、霞喀羅古道、李棟山等へ出掛けた行楽客の車で混雑する。斯馬庫斯は嘗て「黒色部落」の最奥と言われた部落、鎮西堡は台湾最大規模の巨木群(紅檜)の原生林を持つ。李棟山は清朝の開山撫蕃下で李棟将軍が砦(とりで)を築きその後を日本軍が襲い再建、タイヤル族鎮圧の為の大規模な砲台が今に残る。写っていないが、写真左奥には原住民の経営する食堂並びに季節の野菜、果物の出店で賑わっている。
内湾を通過し更に県道120線を数キロ進むと尖石の街になる。ここで120号線を右折し尖石大橋を渡ると郷道80号線に入る。ここが嘗て台湾最奥と云われたタイヤル族の村々への入口である。錦屏一号大橋を過ぎるとタイヤル族勇士の巨大なコンクリート像が大きく路上に張り出している。ここからナロ社(現代漢音表記:那羅)に入り、高度をぐんぐん上げて最初の分岐点であるウラオ社(同:宇老)に到る。
1970年代、台湾に於ける社会運動が澎湃として起こるのと期を一にしてアメリカのジャーナリズムの影響を受けた台湾のルポルタージュ文学が興る。その時期の代表作が古蒙仁の「黒色部落」であり、陳銘磻の「最後一把番刀」で尖石郷の原住民族部落を取材した作品群、ナロ社を含めた最奥のタイヤルの部落に日が当たり始める。
尖石大橋からウラオまで約20キロの距離、ここまで来てもタイヤル族部落の山深さと、それらを監視すべく理蕃道を延ばしていった当時の総督府の執念が交錯する。ウラオ社から郷道80号線は複雑に枝分かれしていく。北から、李棟山に通じる馬美(日本時代表記:マーメイ)道路、玉峰(同:マリコワン)を経て更に奥へ進む玉峰道路、秀巒(同:控渓)道路、その先は霞喀羅へ到る秀錦道路とスマングス(現代漢音表記:斯馬庫斯)やチンシボ(同:鎮西堡)へ通じる泰崗(日本時代表記:タイヤカン)道路という具合に。すべて当時の理蕃道である。(終)
2006年11月05日
この記事へのトラックバック
尖石大橋を渡らないで川に沿って行くと八五山に行きます。バスは水田部落に寄って行くのですが、途中の鉄嶺に養鱒場が一軒あり、民宿と食堂もやっています。3月にそこに泊まりました。そこから歩いて1時間半ほどで八五山大橋に着くんですが、バスの終点がある最後の部落を過ぎてもきちんと舗装された広い道路でした。道路際の笹原に「売り地」の小さな看板が立っているところもありました。橋を渡った正面に碑があって『この道路は北横の高義までの計画だが、環境問題、経済問題で休止』というようなことが書いてありました。周りは霧が深くてよく見えませんでした。それに一人だったので何かあってもと思い、早々に戻りました。(古道ではなく、新道の話でした)
そうそう、あれは西豊穣さんだったんですね。
去年の5月台湾資料センターに初めて行きました。そこで「先日はこういうのがあったんですよ。」と『台湾古道を歩く』のプリントを渡され、とても残念に思ったんです。話をされた人の名前をなんと読むんだろうと思った記憶はありましたが、名前までは覚えていませんでした。先日原住民族との交流会のサイトを見てびっくりした次第です。
実は史前博物館に行くに当たって原住民族のことをもっと知りたかったのです。それまでも本を読んだり、桃園の友人(アミス)の父上に話を聞いたりして一応の知識はあったのですが、なんだか解からないけれど何か違うという思いがあったのです。そこで『原住民文学』というものに出会いました。そしてようやく『私は学術的なことが知りたかったわけではなく、人を知りたかったんだ』と解かりました。それにしても、40万あまりの人々の文学があって、しかも日本語に翻訳されているというのは凄いことだと思います。
返事が遅くなり誠に申し訳ありません。チンシボへは私は実際は行ったことがありません。スマングスへの往復の途中で道標を見て面白い地名だという印象だけが残っていました。この時、シャカロ古道の道標も見ており当時は余りピンときませんでした。新竹県のタイヤル族の山奥の村々の位置関係とかがおぼろげながら判り出したのはシャカロ古道を実際歩いた後です。更に明確になったのは、李陳山に登ってからです。至極当然のことですが、現地を踏査してみないことには地図だけを睨んでいても何も湧いてきません。残念なのはここら一帯は高雄から遠く離れていますので、駆け足にならざるを得ないことです。今は点で押さえたところを後追いで地図とか資料を見ながら線を引いているような状態です。
李陳山に行く途中、実は誤って尖石大橋を渡らずにそのまま真っ直ぐに進んでしまいました。お陰で、油羅渓沿いの渓谷美に遭遇したわけですが、目的地が李陳山でその日のうちに高雄まで戻らなければならなかったので気だけが焦り全く余裕無し。水田部落にもついぞ足を留めず仕舞い。台湾北部を訪ねる時は何時もこのような有様です。
以前に何箇所かで書いたことがあるのですが、私は台湾の高山に惹かれ、その後原住民族の存在を意識するようになりました。歴史的にも社会的にもアメリカ・インディアンの置かれている情況に余りにも酷似しているのに愕然とした為です。先住民族が辿る運命は世界共通なのかもしれませんが。明治期の文化人類学の先人達が狂喜したその興奮は理解出来ますが、そんな理解は他方ではその後彼等が辿った茨の道を想起すると今は迷惑な話かもしれません。話は変わりますが、ロバート・デニーロ主演の映画「ミッション」を見たことがありますか?(終)
『台湾の高山に惹かれ・・・・』
台湾百岳の序を読みました。西さんのたぶん全ては表現しきれない思いが伝わって来てドキドキして苦しくなるほどでした。台湾の高山に出会えて本当に良かったですね。おかげで、私も楽しませてもらえます。
先住民の辿る運命は・・・・、私もそう思います。それぞれの文化はそれぞれの哲学を持ち、それぞれ平等だと思います。しかし、権力を持つ者の価値観で世の中は流れていくことが多いからという結果なのでしょう。台湾では陳政権に変わってから原住民政策が色々な面で変化があるようです。その一つとして言語教育があります。友人の父上は以前より成人向けにアミ語を教えていますし、母上もつい最近子供に教え始めたそうです。因みに私の友人はアミ語を話せません。
一方、日本はアイヌ民族がいることを知らない人もいますし、自分がアイヌだと平気で言える状況にはないと思います。アイヌ初めての国会議員萱野茂さんは委員会でアイヌ語で演説しました。皆がわからなくてもアイヌ語を国会で響かせたかったと。その文化の根幹である母語を奪われることがどんな思いであるかとの気持ちを込めて。
【ミッション】残念ながら見ていません。台湾に行く前に見てみようと思います。南米でのキリスト教布教に関わる映画ですね。見たらまた話します。
P.S.
シャカロ古道ー12:横龍古道の文中に「秦安温泉の南方に虎子山」とありますが、私の持っている地図(地図王出版社;台湾走透透)によると、虎子山は蓁安温泉の北方にあり、南方には上島山(1438)となっています。ただ、上島山は別のページでは鳥嘴山と表記してあります。(等高線を見ると同じ位置なのに)どうなんでしょう?
ブログに書いたように、私の理解では現在残る李棟山古堡は確かに日本時代に作られたもののようですが、元々は清軍の砦があった、というものです。さて、その砦が具体的にどのような規模のものであったか?は私自身写真を見たことがありませんので判りません。開山撫蕃下、しかも海防を目的としたものではありませんので、現在台北、台南、高雄、澎湖に残るような大規模な要塞がとんでもない山奥に作られたとは考えにくいです。今現在台湾に残る開山撫蕃下での軍駐屯所跡は通常営盤と言われていますが完全なものは残っていないので往時どのような形をしていたか私は判りません。更に、銃眼を備え、周囲を壁で囲み、且つ見張台を備えた([石/周]楼と表現され、日本では「望楼」と訳されています)営盤より規模の大きな遺蹟も非常に不完全ながら残っているので、李棟山山頂にあったのもそのようなものであったのかもしれません。私が先の「浸水営古道」のブログで紹介した「国家文化資料庫」の中にも日本時代の李棟山の写真を閲覧することが出来ますが、山頂は丸裸ですね。今に見る古堡なんか写っていません。これらの写真はタイヤル族への大攻撃を仕掛けた頃の写真のようなので、この後要塞建設にかかったのだろうと思われます。これは私のジレンマですが、砦、要塞、こんな表現は多分学術的には不適切だと思うのですが、では「古堡」と言われ我々日本人は何を想像できるだろうか?と考え敢えてこれらの単語を使わせて貰いました。
「台湾百岳」のブログの方は全然更新できずに恥ずかしい限りです。歳が新たまったら再開する予定です。
ご指摘の通り、横龍山と同じく、虎子山は泰安温泉の北側にあります。私のミスでした。鳥嘴山は南側で、この三山は「水雲三星」と呼ばれており台湾北部では人気のある中級山です。因みに、台湾の「三星」で著名なのは、メイウェンティさんが横断することを希望していらっしゃる南横沿線の「南横三星」(庫哈諾辛山、塔関山、関山嶺山、すべて台湾百岳)です。この三山、いずれも登山口が南横脇にあり、登山口からだけの頂上往復の行程を考慮すれば日帰り可能ですので、百岳登山の入門山とされています。鳥嘴山と上島山の関係は調べてみます。時間を下さい。(終)
市販の地図は地形図をベースにして作成されるはずです。地形図に拠ると鳥嘴山と上島山は別な山ですね。後者は三角点がありますが、前者はありません。参考までに。(終)
南横三星の話、心が躍ります。私も子供達が中学生ぐらいまでは弟も一緒に毎夏のように会津の山に登っていました。しかし、今回は心だけを登らせることにしましょう。たぶん霧も濃くて見ることも難しいかもしれませんし。
ところで、掲示板に書いてあった関山越嶺古道というのは南横東口の関山からですか?それとも、今回教えていただいた南横三星の関山嶺山を越えるんですか?今回関山に行くのはそこの高校の先生を訪ねるのです。去年史前博物館に行った時、偶々高校の原住民芸能班の卒業公演をやっていて、知り合うことになったのです。ですから、今後も訪ねる機会があります。もしその古道が関山からであれば、その時に学生達も一緒に歩けるかななどと思っています。
その通りですね。台湾の高山の眺望を堪能したいのであれば大凡午前9時までが勝負です。台湾では水蒸気が上昇する速度が速いのでこの時間帯を過ぎてしまうと霧か雲の中という可能性は非常に高いです。私も山に登る時はこの時間までに山頂に立てるように行程を組むのが普通です。
現在の台東県関山と関山越嶺古道の「関山」とは何の関係もありません。現在の関山鎮関山は戦後国民党政府が勝手に改称したものです。日本時代は里[土/龍](ブヌン語の漢音訳)と呼ばれていました。では、関山越嶺古道の「関山」とは何かというと台湾南部の名峰関山のことです。台湾百岳の一つで標高は富士山より百メートルぐらい低いだけです。関山越嶺古道とは関山の稜線を跨いでいた警備道のことです。横南三星はすべて関山から派生する稜線上にあります。尤も、里[土/龍]を関山に改称した際は、この名山に因んだものであることは言うまでもありませんが。
南横の最高点は関口[土/亞]口で、塔関山と関山嶺山とを結ぶ稜線の鞍部(最低点)をトンネルが貫いておりこの東側入口付近に当時の警備道上で最高点の関山駐在所があったと考えられます。当時の写真と現在の地形とを引き比べてみて私はそう判断していますが、100%の自信はありません。今は同地点に関山嶺山への登山口がありますが、日本時代はこのトンネルはありませんでしたので、実際の警備道は稜線のもっと高い所を越えていたと思われます。それらしき場所は関山嶺山の登山道中にあります。関山嶺山は横南三星の中では最も簡便に登れます。足に自信があれば往復4時間みておけばいいでしょう。
関山越嶺警備道の東側起点は、現在の省道9号線を関山より北上し暫く行ったところにある海諾(日本時代のハイトワン)で、現在の地名はこのブヌン語の漢音訳です。
嘗ての関山越嶺警備道で一般向けに歩けるように整備された部分は僅かに3キロ、[土/亞]口西側の方で、中之関古道と呼ばれており、誰かがこの掲示板で投稿なさっていましたね。私も他の場所が歩けないものか常常気を付けているのですが、なかなか収穫がありません。その高校の先生なら知っているかもしれません。尋ねてみては?(終)
今度の関山行きもどんな人に出会えるか楽しみです.関山越嶺古道のこと、尋ねてみます.
実は今読んでいる本(《鹿野忠雄(台湾に魅せられたナチュラリスト)》山崎柄根 (つかね)平凡社)にーー鹿野忠雄が里[王龍]→パシカウ流域→内本鹿→卑南主山→渓南山→六亀北方の老濃渓宝来と歩き、老濃渓河岸のガニ、ビビュウ、ラボラン、ラックス、そして、ラホアレ一派の住処まで入り込んだーーと書いてあったので、『里[王龍]』はどこかで聞いたことがあると思ってちょっと戻ってみました。それは関山でしたね。地図でそのルートを辿ってみました。
ラックスはラックス渓としてありましたが、他のカタカナ地名はわかりませんでした。
文章を読んで地図で辿るだけでも面白いのに、それを実際に歩くとなるともっと面白いのでしょうね。
内本鹿、もう一本の関山越嶺道ですね。以前は西側からも東側からも入れたのですが、今は西側、つまり高雄−六亀から入るのは難しくなりました。林道の崩壊の関係です。私がどうしても歩いてみたい古道は、@八通関東段、A能高東段、B内鹿本、C日軍墓址(タロコ国家公園内)です。@〜Bは時間さえあれば歩けます。Cはまともな道は多分付いておらず、中国語、日本語を問わず同国家公園のガイドには一切紹介がありません。佐久間総督下のタロコ族征伐の時の戦死者の墓ですが、今の日本人はそんなのがあることは多分誰も知りません。
卑南主山は台湾百岳、非常な苦労をして登りました。豪雨の中、しかも夜間だったからです。頂上稜線に出た時には晴れ上がりましたが。渓南山は高雄十名山の一つ、誰でも簡単に登れますが、登山口に至るまでの車の運転が大変ですし、この林道、ちょくちょく閉鎖されます。(終)