【写真説明】内獅村旧社、日本時代の内獅頭社に残る内獅頭公学校跡の三枚。日本時代建立の門柱に嵌め込まれたプレートの「高雄州潮州郡」とは、日本時代の当地の行政区域名である。この校庭でパイワン族伝統の儀式を執り行い、大亀文王国の首都、旧内文社に分け入るのが尋魂の旅の通例のようだ。つまり、内獅頭公学校跡が尋魂の旅の起点というわけだ。
大亀文王国の末裔は現在は二県、四郷、六村に散らばっている。先に紹介した同王国のサイト、「チャオボオボル・プロジェクト」のホーム「首頁」の右隣メニュー「内文部落群」下にこれら六村各々の変遷史の紹介があり、更にその右隣メニュー「社群地圖」に現在の居住地が赤字で示されている。
これまでの二回の記事で、旧内文社=現在の内獅村のような印象を読者に与えてきていると思うが、日本時代の地形図と現代の市販地図とを子細に比較してみると、私の早とちりであったことに気付く。
現在の内獅村は台湾海峡縁(へり)に形成されているが、現代地図帳では、そこから東側山中に延びる産業道路の先にもう一つ「内獅村」の記載がある。原住民部落の移遷前の(大概は無人)の旧地は、現在の部落名に「旧」の文字を冠するのが通例だが、上述の内獅村は「旧内獅」という記載にはなっていないので、現役の原住民部落だと思い込んでしまった。加えて、その位置が日本時代の地形図と比べるとどうも当時の内文社の位置と一致しているように思えた。
実際は、「内獅村」は「旧内獅」と表記すべきものであることが、現地に辿り着いて判った。旧内獅村は日本時代は「内獅頭社」(内シタウ社)と呼ばれていた。現在の内獅村からマンゴー畑の中を走るコンクリート製舗装道路を4キロ程度登り詰め、コンクリートが切れた部分から更に暫く進むと一軒の有人の家屋とその奥に広場が広がる。校庭跡である。嘗て二学級を擁した内獅頭公学校である。ここまでは普通車でも入山可能である。
さて、この公学校跡から内文社入口、即ち、南台湾騒擾事件碑までは「チャオボオボル・プロジェクト」中にある記録だと約二時間の歩行なのだが、その間の道路状況はこの「パイワン小夜曲」ブログ掲載の或る尋魂の旅を記録した一連の写真で十分想像が出来る。が、なにせ4年程以前のものだ。最新山道状況が今現在掴めていない。(続く)
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