【写真説明】現在の屏東県獅子郷内文村内にある2000年に建てられた「獅子郷内文村遷村五十三週年記念誌」。誌碑に依ると、中華民国36年(1947年、昭和22年)、戦後間も無く、旧村から現在の地への移村が決定されたとある。右写真は現在の内文村の様子。
内文社について暫く書くことにする。私が何故旧内文社に興味を持つようになったのか?その切っ掛けは何かの拍子に以下のサイトに行き当たり、そこに明らかにそれ程昔に撮影されたものではない「南蕃騷擾殉職警官碑」の写真が二枚掲載されていたからだ。その当時は、このサイトそのものが何を意味するのか?よく判らず、唯単に、この碑が何処かに現存しているはずだというのが興味の対象であった。その後、色々なことが判ってきた。
但し、この記事を書いている現時点では、旧内文社に辿り着いたわけでもないし、その旧内文社にあった駐在所跡地に恐らく佇んでいるであろう碑に出会えたわけでもない。色々判ってきたことを備忘録代わりに数回書いてみようというのが魂胆である。旧内文社に実際辿り着けたら更に更新することにする。
さて、本ブログで内文社のことを以前少しばかり記事(「パイワン族秘道−41:中間路−2」)にしたことがあったので、まず、それを再録・抜粋し、一回目の記事を終えることにする。
[再録・抜粋開始]
「ちやこぼこぼじ蕃」とは具体的に何処だったのか?は確実には特定出来ていないが、現在の獅子郷に相当する部分を当時の地形図で当たると「チャチャボボ」いう表記を見付けた。枋山の北東、獅子郷内獅村の南西にある山の名前に充てられている。上記説明中にある「屏東県獅子郷」、或いは「高雄州潮州郡蕃地」に相当している。
尚、内獅村の位置は、日本時代の内文社の位置であることにこの「ちやこぼこぼじ蕃」を探しながら新たに気付いた。現在の内文社は獅子郷の遥か南方、牡丹郷との境界に近い所に移遷している。私が長年探している「南台湾騒擾事件碑」は内文社跡地にあると考えているのだが、内獅村に行けば手掛かりが掴めるかもしれない。この話はそのうちにもう一度蒸し返す機会があるかもしれない。
[再録・抜粋終り]
ところで、先に紹介したサイト、日本時代に撮影したと思われるモノクロ写真を背景にしたトップのバナーの左側に次の三つの単語が組み合わされている。これらが内文社探訪のキーワードであることが判り始めたのは、初めて南台湾騒擾事件碑の写真に行き当たってから随分経っていた:
*「内文社群」
*「caqovoqovolj」
*「大龜文」
「caqovoqovolj」とは上記再録した記事中の「ちやこぼこぼじ蕃」であることが判ると思う。台湾のサイトの中には「大龜文王國」の文字が躍る。つまり、単にパイワン族の一集落を指すのではないことを示す為に「群」を付属させたのだ。(続く)
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