【写真説明】饅頭山、荻坂山と連続するタッキリ渓右岸の山稜山腹に一直線に延びる合歓越道路が開鑿されていたが、元々はタロコ族が永年使用してきた連絡道だった。ここに掲載した三枚の写真は、今でも目を凝らしてみると嘗ての警備道の痕跡を辿れるという証拠を示したものだ。廻頭湾を後にし豁然亭(「合歓山越嶺古道−11」)を過ぎると中横は再びタッキリ渓上部に出て来る。そこでタッキリ渓対岸を撮影した。左写真の一番左側の瘤が饅頭山、その一個置いて右隣の瘤が荻坂山である。中央写真、並びに右写真は古道が走る饅頭山山腹を撮影、斜面を写真右上から左下へ横切る道路跡が確認出来る(と思う)。
9ヶ月に渡り掲載してきた合歓山越嶺古道の記事を今回で一旦閉じることにした。一旦という意味は今後も掲載する機会があるという意味である。それぐらい一般のハイカーが入り込まない旧道はいまだに多く存在している。
最後の記事のテーマとして饅頭山を持ってきたのは、そうそう簡単には入り込めないと充々承知しているので、せめて中横から痕跡ぐらい確認出来ないものか?と現地を見通せる場所を何度も往復しながら長い間思い煩っていたからだ。実は、その痕跡は確認出来ていたのだが、前掲の小学生教材サイトを探し当てるまでは自信が無かったというのが正直なところだ。
原住民連絡道−軍用道−警備道という経緯を辿った合歓越道路の、上掲の写真(本サイトから借り受け:同サイトも各写真の出所明記されず)に見る鋸状の稜線下を一直線に走る一段は、そっくり蒸発してしまったように見えるだけに、痕跡だけでも確認出来れば私には大事件だった。
この一段は、「合歓山越嶺古道−4」で紹介したカラバオからタビト(現在の天祥)に至る最後方の部分で、当時はこの間は一日コース、従ってこの両地に宿泊施設があった。今仮に全段まがりなりにも古道を辿れるとしたら優に一週間を越えるのでは?やがて鶯橋と名付けられた鉄線橋を渡りタッキリ渓を左岸に渡りタビト側へ降りる。この鉄線橋も現存しているのが前述のサイトを見れば判るが私自身は見落としている。
カラバオの東隣のセラオカフニ(略称:セラオカ)に佐久間軍司令部が置かれたので、セラオカからタビトまでの一段はタロコ戦役時の激戦区だった。佐久間軍は、饅頭山にも野戦砲を揚げている。「在饅頭山的日軍山砲兵第二中隊砲擊敵軍的情形」(原文は日本語)と題された下掲写真(國家文化資料庫/系統識別號:0000812846、元々はタロコ戦役後出版され写真帖「大正三年タコロ蕃討伐軍隊紀念」から)は、台湾では良く知られた一枚である。どんな分野であろうと世の中には本当の意味での「猛者」がいるなあと感嘆することがあるが、この写真の撮影地点を特定した台湾人が居る事を知った時には仰天した。
最上掲左写真、本文上掲写真、そして下掲写真の三枚を比べてみると、撮影地点は異なるにせよ、各写真に写る山稜を合わせると各カメラは同方向を眺望しているのに気付くと思う。どうも饅頭山頂上まで野戦砲を引き揚げたようだというのが判る。(終り)
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