2006年10月26日

霞喀羅古道−7:内湾

Kodou-18.JPG【写真説明】縦貫鉄路内湾支線の終点、内湾駅の山側に隣接した新竹県警察局横山分局内湾派出所、内湾の町を見下ろすように建つ。昭和13年(1938年)創建。最初から駐在所として建てられたのではなく、元々は「南河部落振興会」であった。いずれにしても現役の木造の警察関連建築としては台湾最古の物であろう。これだけ見事に保存され現役に供されている日本時代の木造建築物は台湾にはそう多くない。加えて、派出所の敷地内には観光客用にパラソル付きのテーブルが置かれ気楽に寛げるし、これも観光客用に外にトイレがあるが、このトイレのコンクリートの土台は日本時代から引き継がれてきたようだ。警察という厳しさからは程遠いユニークな派出所である。

霞喀羅古道の西側入り口へ辿るには高速3号線を竹東インターで下りて県道122号線を南下していくが、東側入り口へ辿るにはこの122号線と鉄道内湾支線を間に挟みながら暫く並行して走る120号線を東側へ向かい、やがて新竹県横山郷内湾に入る。内湾は日本時代、正にタイヤル族「蕃地」への入り口であった。実際、内湾の東側に「蕃界」の境界線は引かれていた。当時はここから理蕃道が始まり、現在ではすっかり観光地になってしまった李棟山、スマングス社(漢音表記:斯馬庫斯)、チンシボ社(同:鎮西堡)等、1970年代になり「黒色部落」と呼ばれた台湾でも最奥の部落への道が内湾から始まる。霞喀羅古道もそのような理蕃道の一つである。

内湾は週末は恐ろしいぐらいの観光客で溢れかえる。台湾人に言わせれば内湾も台湾北部の代表的な観光スポットである台北県瑞芳鎮九[人/分]と同じ運命を辿っているとのこと。喧騒が鄙びた床しさを霧散させているという意味である。私もこの町を通り更に山奥に入っていたことが過去三回程あるが、実際立ち寄ったのは一回だけ、しかも駆け足である。人と車の多さに恐れ戦いたからだ。

九[人/分]が金鉱で栄えたのに対し、内湾は石炭と木材で栄えた町である。客家人の街であるこの内湾の観光の中心を為すものは内湾駅である。日本の鉄道ファンにもよく知られた駅で、文字通り鈴なりに人が群がる。明治41年(1911年)には既に今の新竹と内湾を結ぶ縦貫鉄路の前身とも云える軽便鉄道が敷設された。現在実際使われている縦貫鉄路は終戦直前の昭和19年(1944年)に工事が開始されたが終戦で中断、国民党政府に引き継がれ1950年に全線開通したものである。鉄道の駅を「主題」にした観光地は台湾には少なくない。旧縦貫鉄路(山線)の勝興駅(苗栗県三義郷)、集集線鉄路の集集駅(南投県集集鎮)、阿里山森林鉄道の奮起湖駅(嘉義県竹埼郷)等が代表であろう。

加えて、内湾は日本時代、新竹空軍基地の家族の避難所が置かれた所で、当時桜が多く植えられた。「桜部落」の異名があったらしいが、当時の桜は、これも駅の山側にある内湾国民小学校の校庭に残る。又、この街を大きく囲むように流れる油羅渓は日本語の「よろしく」が来源だとも聞いたことがある。街中にある内湾戯院(劇場)は今はレストランを中心にした観光コンプレックス、戦後1951年に作られたものだそうだが、完全な木造日本家屋様式で、この前に佇むとタイムスリップした感に襲われる。台湾の木造戯院を代表する建築である。この他にも、内湾は日本時代の風采を色濃く残す物が数多くあるのだが、残念ながら人が多過ぎる。内湾戯院並びに内湾の歴史に関する日本語での紹介は以下のサイトが秀逸、参考にされたい:

http://www.neiwantheater.com/

(終わり)
posted by 玉山 at 23:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 霞喀羅古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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