【写真説明】左写真、忠孝吊橋入口で若い夫婦に出会う。忠孝吊橋は「合歓山越嶺古道−25(梅園竹村歩道−4)」左写真で紹介した警告板写真に採用された。タウサイ渓左岸の支流に掛かる吊橋先端が進行方向左側から雪崩れ込んできた土砂で断裂していた。それが中央写真である。右写真は忠孝吊橋に並行に残る日本時代敷設の鉄線橋残骸。梅園竹村歩道上で確認出来る日本時代の遺構は先に紹介した梅園駐在所跡とこの吊橋のみだった。
最初この忠孝吊橋に至った時、妻が盛んに大声で怒鳴っているので、喧嘩でもしているのか?と思ったが、そうではなく、夫の作業を見守っていて危なそうだとアラームを上げていたのに気付いたのは竹村まで至り戻って来て再び現場に帰り着いた時だ。
本文記事下左写真は断裂した吊橋の対岸側の完全に滑り落ちた道路を修復する夫。小型ショベルカーが載っかっている部分が修復し掛けた部分、この部分が崩落するか、ショベルカーがずり落ちてしまえば、タウサイ渓に真っ逆さまで、工事の様子を見ているのは耐え難かった。妻の心中はいかばかりだったか?
さて、この夫婦の物語、一部は記憶が定かでない部分もあり、叉一部は何処かで聞いた物語と混淆している可能性もあるのだが。。。
夫の父親は中横開闢後に当地に入植した国軍兵士、つまり外省人である。その母親、つまりその夫にとり祖母は日本人とのこと。夫はこの地を離れたことはなく、果物等を収穫し廻頭湾に置いてあるトラックで天祥辺りに卸す。他方、妻の何代前かにはドイツ人の血が混じっているタイヤル族、タイヤル族の女性は元々美しいが、妻は更に背が高いのはそのせいか?宜蘭県南澳の出身、どちらも×一同志で結婚。以前は廻頭湾の上部に位置する西宝(日本時代のシーバオ社)に住んでいたこともあるらしいが、今は梅園竹村歩道の終点、タウサイ渓沿いの最奥の村、竹村(上梅園)に住む。彼らの話から推すと、現在竹村はこの夫婦も含め、二戸、合計四人程度の村ということになる。妻の最初の夫の母親が布洛湾遊楽区(「合歓山越嶺古道−15」記事中の註10を参照)で働いていた関係でタロコの方に移って来た。二人はタッキリ渓沿いの何処かで出遭ったということだろう。
断裂した忠孝吊橋とその先の滑り落ちた道路、その下はストレートにタウサイ渓の底まで遮るものが無い岩盤が露出している。普通の人には危険極まりなく躊躇無く引き返さなければならないのが常識。他方、夫婦はそこを歩いて来たし、叉歩いて帰らねばならない。
中国蘇州下りからわざわざ来て、この古道を途中で引き返さなければならない私の無念さを察した同行者は、私がそこを乗り越し向こう岸に渡りそのまま竹村に行くのを見送ってくれた。その妻が竹村まではゆっくり歩いて40分だと言ったので、残り三キロだと踏んで歩き出した。下右写真は、忠孝吊橋を越えてすぐ吊橋方面を振り返ったもの。(続く)
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