2006年09月30日

霞喀羅古道(石鹿古道)−3

Kodou-14.JPG【写真説明】松下駐在所跡と思われる平坦地で休憩するハイカー。「思われる」と書いたのは、表示がないので私が勝手に特定したものである。林務局が設置した古道入口の案内板に松下駐在所の表記は無い。これまで書物、山行記録等色々見てきたが、駐在所の位置と当時の名前に関し最も正確な情報は、上河文化製作、林務局出版の「国家歩道系統導覧図」(2003年11月出版)であろう。但し、このシリーズ、僅か四本の歩道しかカバー、販売されていない。私がこの古道を歩いた時には残念ながら持ち合わせておらず、後追いで色々想像するしかなかった。

この古道の特徴は、当時の全台湾の原住民警備道中で最も駐在所の配置密度が高かったことだ。現在の古道の両入口に林務局が設置した案内板に依ると、この古道上の当時の駐在所跡は、西側からシヤカロ(現、石鹿。但し、これは現在の歩道入口に入る前の車道脇にあり、戦後立て替えられその後廃棄された建物が現存)、田村台、青山、馬鞍、栗園の4駐在所しかないが、台湾側の最近の山行記録等を見ると、田村台、高橋、松下、楢山(戦後、青山)、朝日、石楠、サカヤチン(同、白石)、見返、武神、馬鞍、テラッカス(同、栗園)、ハガ、養老、に嘗て駐在所が存在したとある。これでいくと24キロ中に10箇所以上になるので、約2キロ以内の間隔で配置されていたことにある。但し、他の資料ではこれより少ない駐在所数を上げて配置間隔を4キロとしているものもある。

当時の警備道上の駐在所配置の間隔に関しては何等かの基準があったのかもしれないが、現実的には原住民集落の場所・人口と地勢が考慮されるのは当然として、監視すべき原住民が「従順」かどうかという度合いも考慮されたはずである。その意味ではこの警備道上沿線のタイヤル族の抵抗は特に激しかったことがうかがえる。

事実、大正6年のシヤカロ事件以降台湾総督府はこの地域に相当数の軍隊・警官を投入、討伐に乗り出し最終的にこの地域のタイヤル族を降伏させるのに11年を要したそうだ。日本の台湾統治が50年、この間台湾全土の原住民を最終的に制圧・降伏させるのに40年を費やしたと云われている。このような長きに渡る原住民との抗争を最終局面に於いて高砂義勇兵として「昇華」させていったというのが支配者たる日本人の側から見た原住民統治の歴史的な構図と言えるかもしれない。>(メルマガ「台湾の声」2005年2月25日掲載分の一部を改編)次回へ続く...
posted by 玉山 at 14:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 霞喀羅古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック