【写真説明】左写真は廻頭湾にある梅園竹村歩道入口のガード、ピンクの張り紙は進入禁止を警告したもので。2010年5月の撮影。約一年半後の今回はこの張り紙は剥されていたが、林務局敷設の歩道案内板にはまだ進入禁止の警告が表示されていた。右二枚は廻頭湾駐車場に立つ索道起点。ケーブルは蓮花池付近の農場への資材運搬用である。同時に農場での作物を降ろして来る。本文記事最下段の二枚の写真は廻頭湾歩道入口から暫く入った地点の歩道、即ち旧理蕃道の様子。錐麓古道と何等遜色は無い。
明けましておめでとうございます。本ブログ、足掛け七年目に入りました。何時まで続けられるか?今年もご贔屓賜りますよう宜しくお願い申し上げます。
さて、歳初めは合歓山越嶺古道の続きから始めることにした。この段は思い出深いので、記憶が新鮮な内に認めておこうと考えたからだ。
深水温泉を過ぎて中横を少しだけ登ると、中横が大きく迂回する場所があり、そこは駐車場になっている。中横はそこまではタウサイ渓を北上するのだが、この地点で大きく反転、タッキリ渓谷側に後戻りする格好で高度を稼ぎながら、やがて天祥を見下ろす場所へ出る。
前述の迂回地点は、そのものズバリ廻頭湾と呼ばれ、そこに至りまずドライバーの目に飛び込んでくるのはがっしりと大地に立つコンクリート製の索道の起点である。索道とは何を運ぶかに関係なく日本で言うところのケーブルカーである。台湾山中に入ると、どうやってケーブルを渡したのか簡単には想像出来ないような谷間に相当な高度さを設けて索道が設置してあるのに行き当たる。これらのケーブルは農場に必要な肥料等の物資を運ぶ上げ、或いは逆に運び降ろし、逆にキャベツ等の作物を降ろし、上げる。私はこれは台湾独特の風景ではないかと考えている。この廻頭湾のケーブルも然り、そこからケーブルは雲を突くような格好でケーブルが山の頂に延びるがケーブルの行き着いた先が何処なのか?が判ったのはつい最近のことである。
さて、駐車場、索道以外に廻頭湾にあるものは、「蓮花池及び梅園竹村歩道」入口である。この歩道も日本時代の警備道を襲ったもので、合歓山越嶺古道支線と呼べるものである。この歩道は、一本ではなく途中で分かれている。即ち、廻頭湾-蓮花池間4キロ弱と、廻頭湾-梅園竹村間10キロ弱である。前者はタウサイ渓を渡り、後者はタウサイ渓を北上する。時間の関係で私が選んだのは後者の方である。元々は、中横139.5キロ時点にあるはずの見晴駐在所跡に至る入口が見付けられず、日軍墓葬群踏査を断念した後のB案として梅園竹村歩道を選んだ。
2009年のモーラコット台風でこの歩道は大崩壊し、その後も間歇的には一般ハイカー歩行を許可していたのかもしれないが、廻頭湾の歩道入口付近の同歩道の案内板上、その付近には今でも「進入禁止」を警告する張り紙が残る。今回踏査したのは2011年10月だが、その約一年半前の2010年5月に立ち寄った際も進入禁止だった。
実はこの歩道上には人が居住しているので、歩道修復は間断なく行われているはずで、進入禁止と言ってもそれはハイカーに対する警告であり、人の歩けないはずがない、と私などは考えていた。今回実際歩いてみて驚いたのは、一つは、実際居住している人の少なさである。全長10キロの歩道沿に二つの部落が残るが、合計三戸乃至四戸、住人数五、六人程度だと思う。もう一つは、歩道の崩壊の凄まじさである。(続く)
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