【写真説明】石鹿側から入り最初に出会う田村台駐在所。写真で見るように、戦後ヒノキが植林されている。駐在所の石垣は見事に残存しており、植林はされてはいても当時の駐在所の範囲は平地のまま残されている。田村台駐在所の場合、建造物が嘗て存在したであろう平地の広さは誰でもがそれと認識出来るが、この古道上のそれ以外の駐在所跡は注意深く観察しないと嘗て建造物が存在したことを想像するのは難しい。建造物そのものが残存している例が少ないからである。
この古道、何故人気があるのかと云うと、アクセスの簡便さと歩き安さも然ることながら、この「霞喀羅」という響きに惹かれる部分もあるのではないかと思う。台湾人にはこれが原住民語の漢音表記であることはすぐに判る。日本時代、原住民の部族名(蕃)、集落(社)はすべて原住民語音をカタカナ表記していた。戦後はこれ等はそのまま漢音表記されるか、別な地名に書き代えられたが、今の漢字表記を見て当時どうカタカナ表記されていたかを想像するのは北京語発音に慣れない日本人には難しい。それで当時作成された地図に頼るのが一番ということになる。今でも日本時代に作成された地図はその複製を台湾でも容易に購入することが出来る(→参考サイト:http://www.sunriver.com.tw/map_oldtaiwan.htm)。
上河文化より出版されている大正12年台湾総督府警務局作成の30万分の1の地図に依ると、「霞喀羅」は「シヤカロ」、或いは「シヤカロー」とカタカナ表記されていたことが判る。更に、現在の古道に沿った部分を見ると、西側から「上坪前山蕃」、「上坪後山蕃」、「キナジー蕃」の文字があるが、前者二つのタイヤル(泰雅)族シヤカロ群と同キナジー群との元々は交易・婚姻道であったものが、これ等タイヤル族との抗争・討伐・警備の為に整備、拡張され、最終的に「シヤカロ-サカヤチン警備道路」として完成されたのが霞喀羅古道で、当時は全長60キロあったそうだ。
因みに「サカヤチン」の現在の北京語音表記は「薩克亜金」である。こう書いて来ると恰もこの付近の警備道は一本だけだったような印象を持ってしまうが、実際はこの地域の警備道拡張の歴史と警備道網は複雑で、現在でも同地域の他の警備道も歩けるのだが、最も歩き易い「シヤカロ-サカヤチン警備道路」が林務局が力をいれて整備している霞喀羅古道である。>(メルマガ「台湾の声」2005年2月25日掲載分の一部を改編)次回へ続く...
2006年09月23日
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石鹿の言い方が気になってしまいました。この地名はいつからですか?今までshiluの音か出て来なかったんですが、日本時代の表記が「シヤカロ」、「シヤカロー」だとすれば、石鹿を「シャクロク」→「シヤカロ」にしたんではなどという思いが出てきてしまったんです。
こういうことを色々考えるのは面白いですね。西さんにとっては苦笑ものかも知れませんが、どうでしょうか?
「石鹿」は戦後の改称です。メイウェンティさんご指摘のように「シャカロ」の音を意識したものだと想像されます。但し、「霞喀羅大山」だけは残してありますね。では何故「鹿」の字を充てたか?ここら一帯に現在三箇所「鹿」の字を持つ地名があります。即ち、石鹿、大鹿、鹿場。大鹿は専ら大鹿林道の名で知られています。何度も書きましたが大覇尖山への登山口です。この三箇所の内、戦前から存在したのは鹿場のみです。石鹿と大鹿もこの鹿場を意識したものではと私は勝手に想像しています。(終)
どの国の辞書でも最初の音による単語の数には多寡があるように、単語中にもどの音が最も多いかにも差があると思います。残念ながら私は台湾の言語学者ではありませんからこの質問には答えられません。とても奥の深い質問だと思います。(終)