【写真説明】錐麓古道の段には二箇所、岩盤を刳り貫いたトンネルがある。その西側入口(慈恩橋方面)に近い方のトンネル(左写真)の慈恩橋側入口脇の岩盤に地蔵菩薩が安置されている。日本時代のものだ。逆の入口(錐麓吊橋方面)の断崖側側面に日本人に拠る落書きが残っている。それが右写真だ。「落書き」と書いたが、何処でそういう単語を拾って来たか想い出せないのだが、暫くは勝手に、戦前に当地を歩いた日本人遊楽客が記念に彫り込んだものだと逞しい想像をしていた。しかし実際に彫られた「大正」と「開鑿記念」の文字を拾い出してみると、この落書きは単なる余興ではなく、この段を開鑿した際に彫られたものではないか?と思わざるを得ない。落書きではなく、私家版開鑿記念碑だという意味だ。そうすると、地蔵菩薩の安置も二つの可能性が出て来る。即ち、開鑿後この段を行き交う人々の安全を祈願したものか?開鑿中の殉職者を弔ったものか?
<最後に>
錐麓古道の存在を知り、或いは実際そこを歩いてみる機会に恵まれれば、誰でもが、何故このような場所に道を切り開かねばならなかったのか?という至極当然の疑問を持つ。当時の台湾総督府の五箇年計画理蕃事業の名を借りた「生蕃討伐」の暴力性と徹底性の証しであるということは多分間違い無いとは考えるが、それでも前述の疑問には答えていない。
筆者も錐麓古道を実際歩いた際、又、この投稿を書き起こした時点では適当な言葉が見付からなかったのだが、採金道路に関する情報を集めている最中に想起したことは、断崖とか天空という表現は、自分の足元がしっかりしている状態、つまり現在の自動車道、中横に依りながらの話で、明確に意識はしていないだろうが、それを当然だと考えているからだ。垂直の断崖の真ん中に高度500メートルの道を付けることは非常識の極みというわけだ。
但し、当時管制すべき原住民集落が存在していた高度、開鑿当初の情勢、タロコ峡谷内の地形を勘案した時、統治する日本人の立場からは、恐らくは今に残る場所以外オプションが無かったのではないかと推察するのだ。逆に、タロコ峡谷内の今中横が通っている場所に当時道路を開鑿することは、非常識極まりないことであったことは、今現在峡谷内の観光スポットを訪ね歩けば誰でも感得できるし、前述したように中横建設の最大難所だった。当時の日本人にそこに自動車道を通そうという動機を齎したのは、金が発見されたからに他ならないのではと筆者は想像するものである。
最近のタロコ渓谷景観の一大変化は、週末、祭日に関係なく続々と観光バスで乗り付ける中国人観光客だ。渓谷入口から天祥までの間の道路・観光関連設備はバイパスの敷設、橋梁の改建等、どんどん整備が進んでいるが、明らかに中国人観光客を意識したものだ。一昨年の旧正月に花蓮から合歓山越えで高雄に戻ろうとしたら、筆者の運転する一般車両はタロコへの侵入禁止、代わりに殆どが中国人観光客で占められるはずの観光バスを優先して渓谷内へ誘導している場面に出食わし、仰天したことがある。中横開闢の実際の意図と誰が建設に携わったかを考慮すると、押し掛ける中国人観光客は、興味ある現象とも言える。
中横開通から既に50年、主に台風の影響で崩壊してコースを変えた部分が出始めている。遺棄されたオリジナルの舗装道路はやがて古道の扱いを受けるかもしれない。それでも、日本時代に開鑿された合歓越道路の生き残り部分は、台湾人が台湾の歴史に興味を持ち続ける限りに於いては、保存され、且つ歩き続けられるだろう。(2011年4月29日メルマガ「台湾の声」掲載分を一部改編。終わり)
【関連する記事】
- 合歓山越嶺古道−41(霧社−4)
- 合歓山越嶺古道−40(霧社−3)
- 合歓山越嶺古道−39(霧社−2)
- 合歓山越嶺古道−38(霧社−1)
- 合歓山越嶺古道−37(研海林道)
- 合歓山越嶺古道−36(蓮花池歩道)
- 合歓山越嶺古道−35(饅頭山)
- 合歓山越嶺古道−34(梅園竹村歩道−13)
- 合歓山越嶺古道−33(梅園竹村歩道−12)
- 合歓山越嶺古道−32(梅園竹村歩道−11)
- 合歓山越嶺古道−31(梅園竹村歩道−10)
- 合歓山越嶺古道−30(梅園竹村歩道−9)
- 合歓山越嶺古道−29(梅園竹村歩道−8)
- 合歓山越嶺古道−28(梅園竹村歩道−7)
- 合歓山越嶺古道−27(梅園竹村歩道−6)
- 合歓山越嶺古道−26(梅園竹村歩道−5)
- 合歓山越嶺古道−25(梅園竹村歩道−4)
- 合歓山越嶺古道−24(梅園竹村歩道−3)
- 合歓山越嶺古道−23(梅園竹村歩道−2)
- 合歓山越嶺古道−22(梅園竹村歩道−1)
台灣早期很多古道都是梅澤隊長修建的