マラリアは世界的規模で見れば根絶されてはいないが、日本国内では最早外から持ち込まれるだけの病気になってしまった。マラリアの日本での歴史は古く大宝律令(701年)の条文にも現れる。「瘧(おこり)」の字が当てられていた。但し、沖縄諸島を除く日本国内でのマラリアは温帯マラリアと呼ばれ症状の軽いものであった。マラリアが大きく近代日本史に登場するのは、牡丹社事件を切っ掛けとする征台の役以降である。征台の役に於ける日本側兵士の戦闘に於ける死者はごく僅かで、その他の多くが風土病で壊滅的な打撃を受ける。この風土病がマラリアで、その後マラリアは台湾熱とも呼ばれるようになる。明治28年(1895年)、日清戦争に際し台湾平定に向かい皇族として初めて外地での死者となった北白川宮能久親王の死因はマラリアだったとされる。同親王も今は靖国神社に祀られている。
征台の役から太平洋戦争後の南方戦線からの復員までの間、近代日本とマラリアとの闘いは膨大な研究対象と成り得る程に奥が深い。従って、この小さなブログの中でそれを論ずるような暴挙を試みる積りはない。簡便にその間の歴史を概観したい方には、横浜国立大学の飯島渉氏の「熱帯の誘惑−近代日本のマラリア研究」(日本熱帯生態学会ニューズレター、No. 53、2003年11月30日発刊)をご一読することをお薦めする。
(サイトはこちら→http://rose.hucc.hokudai.ac.jp/%7ea11277/NLpdf/53new.pdf)
日本時代、台湾に於いてマラリアの特効薬キニーネの精製に必要なキナの栽培の中心となったのは京都帝国大学演習林場扇平苗圃である。「京都大学農学部百年史」等に拠り当時を概観すると以下の通りである。大学側が台湾総督府から演習林の払い下げを受けたのが明治42年(1909年)、この演習林が本格的な事業を開始するのが大正15年(1926年)、扇平に各種樹木の苗圃が開設されるのが昭和2年(1927年)、キナ栽培事業の拡充に伴い扇平に作業所が開設されるのが昭和12年(1937年)、その後キナ皮の収蔵庫、乾燥場が相次いで建設された。当時扇平の造林面積は620ヘクタール、この内400ヘクタールがキナの栽培に使われたと云う。ここで働く職員等が約100人、これに200人を越える高砂族奉公部隊が栽培に従事していた。
現在高砂族が語られる場合、専ら言及されるの南方戦線に転戦した高砂義勇兵であるが、扇平に於いてキナの栽培に従事していた高砂奉公部隊の存在を私は初めて知ることになった。(終わり)
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