2011年08月20日

合歓山越嶺古道−2

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【写真説明】左写真は台湾自動車道最高点を示す「台湾公路最高点」碑、今は武嶺と呼ばれる地点。中央写真は、その碑の道路を隔てて向かい側にある駐車場で日の出に歓声を上げる遊楽客。同写真右上に写る白い建築物が立つ場所が、合歓山主峰(標高3,417メートル)である。左写真は、北合歓山(標高3,422メートル)より、合歓山主峰(写真右最高点)と東峰(同3,421メートル、写真中央最高点)、その鞍部である武嶺(同3,275メートル)方面を望む。

<中部横貫公路と合歓山越嶺古道>−2
最高点である武嶺は、合歓山主峰と東峰の鞍部であり、ここより標高の高い場所は日本なら富士山しかない。今は武嶺と呼ばれているが、嘗ては、「佐久間峠」或いは「佐久間越え」と呼ばれていた場所だ。後述する「タロコ戦役」(註2)の軍司令官として出動した第五代台湾総督、佐久間左馬太に因んで名付けられた。(2011年4月29日「台湾の声」掲載分を一部改編。続く。。。)


(註2)「タロコ戦役」:新城事件(1896年、明治29年)を皮切りに頻発することになった台湾総督府とタロコ族の武力衝突は、台湾側では太魯閣事件と総称されることもあるが、これらの一連の事件は第五代台湾総督佐久間左馬太による五箇年計画理蕃事業(1910年、明治43年〜1914年、大正3年)発令の導火線になり、最後は、佐久間自身が軍司令官として出動した実際上はタロコ族掃討作戦は、「太魯閣(蕃)討伐」とか「太魯閣(蕃)征伐軍事行動」とか色々な言い方がされている。当時の日本では「討伐」の方が多用されたようだ。台湾では「太魯閣抗日戦役」と呼ぶ場合もある。歴史的な背景を考えると「討伐」や「征伐」という単語が適当とは思われないので、本投稿の中では「タロコ戦役」で統一することにした。軍隊とは別に警察隊も組織され、その隊長には当時の民政長官、後の第9代台湾総督内田嘉吉が就いた。軍隊は合歓山越えで東進、警察隊は新城からタロコ渓谷を西進、所謂東西挟撃の態勢で臨んだ。5月17日、軍事行動開始、同年8月19日、佐久間軍司令官凱旋。

台湾総督側が近代装備の軍隊の大部隊で臨んだタロコ戦役の内実は容易に想像が付く。霧社事件と同じように、タロコ戦役に関しても従来から台湾、日本の双方で、凄惨で悲惨な戦役を風化させないよう検証、研究、討論は継続されている。最近になり、タロコ戦役に従軍した一日本人兵士の手記も発掘されたりしている。他方、一方の当事者であるタロコ族の間では、戦役の記録は口承という形で後代に伝えられてきた。その集大成の一つが、2001年、台湾で開催された「太魯閣抗日戦役105週年紀念回顧史研討会」。
posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | 合歓山越嶺古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
梨山から台中まで豊原客運の“路線バス”で14号甲線を通って移動しました。大禹嶺のくねくね道を過ぎると左右に広がる緑のビロードの起伏、特に左手の幾重にも重なる中央山脈の稜線は遠くなるにつれ緑色が青になります。武嶺を通る天空路線は本当に美しいものでした。

《バス時刻表》
http://www.fybus.com.tw/data/3/601b.htm
Posted by at 2011年08月22日 10:09
コメントありがとうございます。おっしゃる通り玉山箭竹は偉大です。

私の台湾の旅は、何処に行こうが常に時間に追い掛けまくられての駆け足です。多分、感動もその分少ないというか、感動を抑え込みながら走り続けています。さもなくば時間が幾らあっても足りない。。。何時かはのんびりといきたいものだと思い続けています。(了)
Posted by 玉山 at 2011年08月22日 14:33
メイウェンティです。
申しわけありません、名前の記入を忘れました。

緑のビロードは箭竹(センチク?)ですか。何時かどこかで書いていらっしゃいましたね。私が通ったのは12月ですが、夏は更に鮮やかなのでしょうか。

思い続けている事、早く実現できますように!
Posted by メイウェンティ at 2011年08月23日 00:36
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