2006年08月04日

六亀特別警備道(扇平古道)−5

Kodou-5.JPG【写真説明】扇平森林生態科学園内に残る旧京都大学演習林場場長宿舎。戦後、「五木斎」と名付けられ今でも使われている。この他に明らかに当時の建築物と明確に言えるものは園内には最早少ない。台風等に因る大雨で科学園に到る林道が崩壊、しばしば閉園に追い込まれ園内は荒れており、林業試験場から科学園へと衣替えしたにも拘わらず一般大衆へのアピール度は年々減じているように思われる。従来は入園に際し定数に依る団体予約が義務付けられ、且つ入山証の取得が必要であったが、現在は両者とも要求されない。園内には一般行楽客を対象とした宿泊施設も併せ持つ。

メルマガ「台湾の声」に投稿した記事の中で、大きな誤りが少なくとも二つあったことに最近になり気付いた。一つは、現在日本の地名風に「扇平」と呼ばれている森林形態科学園は戦前そう呼ばれていた形跡がないと書いたが、実際は旧京都大学演習林時代からそう呼ばれていたことである。もう一つはの誤りは、当時の演習林の広大さをすっかり誤解していたことである。私は六万ヘクタールという面積をイメージ出来ずに、単に藤枝と扇平の二つの森林遊楽区を結ぶ一帯(これだけでも十分広大だと思うが)が旧演習林だったのだろうと勝手に想像していた。現在の台湾の遊楽区、山岳等の案内で旧京大演習林に言及されるのはこの二つの遊楽区だけだからだ。ところが、京都大学の資料(「京都大学農学部百年史」等)に拠ると、実際は登山者が現在南一段、二段と称している中央山脈南部の真ん中、現在の高雄、台東、花蓮の三県が鬩ぎ合う県境が演習林の東側境界であり、演習林の最北端は八通関に接し、玉山まで及ぼうかという途方もない範囲だったことが判った。この東側境界には台湾百岳が十座以上あり、その最高峰が関山(百岳13号:標高3,668メートル)である。現在の玉山国家公園の南側をすっぽり内包していたことになる。

このような誤りに気付いた発端は、先月末に近い或る日、いきなり京都新聞社社会報道部のK記者から電話をいただいたことである。その時私は車を運転しており、しかも滅多に日本から直接私の携帯に電話が掛かってくる(実際は事務所からの自動転送)ことはないし、おまけに新聞社からの電話ということでかなり慌ててしまった。私の「台湾の声」の投稿記事を読んだ、旧京都大学演習林のことについて聞きたい、マラリアの特効薬を作る木を栽培していた等々、断片的にしか電話の内容が理解出来ない有様。今外出しているので二時間後に電話を下さい、ということで電話を切った。私の知識では、マラリアと旧京大演習林は全然繋がらなかったので再度K氏から電話を貰う前に急いで調べてみて合点がいった。これについては後日紹介する。

再度K氏から電話を貰い、その後電子メールもいただき、終戦記念日前後に京都新聞で戦争と平和を考える連載の特集記事を計画している、マラリアと旧京大演習林との関わり合いを通して当時の戦争を振り返ってみたい、茂林(日本時代マガ社)、多納(日本時代トナ社)等を訪ね当時を知る原住民族の古老にも取材してみたい、李登輝氏との面会も申し込んである等々の計画があることが判った。この時点で、私の頭の中では、旧演習林と原住民族というのも全く繋がっていなかった。

さて、折角京都から台湾まで取材に来られるのはいいが、果たして今現在扇平森林形態科学園とか多納村まで車で入れるかどうか?というのが私の一番の関心事だった。今年も既に数度の大雨、台風で林道は各地で寸断されているからだ。地元の警察の情報は往々にしてあてにならない。それで、この二箇所に事前に出掛けてみた。どちらも高雄市からは車で一時間半ぐらいで行けてしまう。最初に扇平に入るには入山証が必要なことは弁えていたので六亀の警察署で入手して扇平林道を辿った。途中、検査所があり通常ここで入山証を提示しなければならないが、無人だった。これで、林道の崩壊に伴う復旧工事に時間が掛かり過ぎ相当期間閉園していたことが判る。科学園は少なくとも入場料を取るかと思ったのにそれらしいゲートも無い。夏休みにも拘わらず駐車場に止めてある車も少ない。この科学園は以前は入園に際し事前申し込みが義務付けられていたので私は相当立派な園内を期待していたのだが、園内の荒れ果てた様子と日本時代の面影がごく僅かしか残っていないことに少々失望した。ざっと園内を廻ると、すぐに下山、多納村へと向かった。

多納村に入って最初の飲食店にお邪魔し食事を取りながら話を聞くことにした。何も注文せずに質問だけをするのは失礼と考えたからだ。日本語を喋れる老人をご存知ありませんか?道端で会う老人は誰でも日本語を喋るよ、村長さんは何処に住んでいますか?(まず、村長さんを訪ねてお願いすべき、というアドバイスを貰ったから)、あっち(と指を指されるだけで要領を得ない)。そんな会話を繰り返す内に、そこで働いている若い娘さんのお父さんも日本語を喋り、その飲食店の棟続きの家に住んでいることが判った。余り外には出たがらないからと娘さんは言っていたがやっと出て来て貰った。七十五歳、現在の名前は趙金来、日本名は山口次郎さんである。試しに扇平のことを聞いてみて驚いた。戦前そこで働いていたというのだ。山口さんの口から「扇平」が「おおぎだいら」ではなく「せんぴん」と呼ばれていたことを知った。山口さんは終戦の時に未だ十三歳ぐらいだったので、扇平のことなら僕の先輩に聞いた方がよい、彼はもう八十歳を越しており日本名は小川さん、戦前、戦後を通じて扇平で働いていたと言いながら、古い写真があるからと見せてくれた。「懐念多納老照片専輯」と題され、行政院文化建設委員会が音頭を取り茂林郷公所、多納社区発展協会等が編集し約二年程前に発刊された写真集だった。山口さんと小川さんが写っているページをデジカメで撮り、既に暗くなっていたので山口さんの元を辞した。

京都新聞社のK氏が茂林、多納を訪ねて古老に話を聞きたいと言っていたその目的は、当時京大演習林で働いていた約二百人の「高砂族奉公部隊」のことを取材したかったからである。私はその意図を読み切れていなかったという誠にお粗末な話なのである。もしK氏のそのような要望を最初にきちんと理解していたら私もK氏が事前準備段階でそうであったように途方に暮れただろうし、手掛かりとしては、扇平により近い茂林村の村長さんを訪ねるという選択に委ねたかもしれない。私が多納村を訪ねたのは私自身が久々に多納村に行ってみたかったのと単にK氏の取材に応じてくれそうな日本語が喋れる古老を探し当てるというのが目的で、演習林のことは全然頭になかったのである。それにも拘わらず、最初にお会いした山口さんが嘗て扇平で働いていたという非常に幸運な巡り合わせになった。山口さん、小川さんの件をK氏に報告したら、「感動しました」という返事が返ってきた。後日、K氏は小川さんの元を訪れ無事取材することが出来た。私の予想した通り小川さんは外出できる様子ではなく、それでもしきりにもう一度扇平に行きたいと言われていたそうである。現在なら多納村から扇平までは車で一時間も掛からないのである。(終わり)
posted by 玉山 at 22:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 六亀特別警備道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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