それでは、実際日本橋とか三条大橋が存在したのかどうかを確認する為に国会図書館で所有する戦前に作製された台湾外邦図をすべて閲覧したが、肝心の部分の地形図は見付けられなかった。但し、偶々台湾の書店で昭和九年という説明のある地形図が掲載されている本を見付けたが、これに日本橋の記載が確かにある(つまり駐在所の数は五十三ヶ所ではなく五十五ヶ所ということ?)。日本時代に作製された台湾の地形図は、総督府臨時台湾土地調査局(明治三十七年製版)、総督府民政部警察本署(大正二年製版)、大日本帝国陸地測量部(昭和九年製版)の製作に成る三種が一般に流布されていたようだが、私が見たのは一番最後のものだと思われる。
六亀警備道の一部は小関山林道や石山林道として今でも使われているが、それら林道沿いで当時の面影を探すのは既に非常に困難だ。林道の谷側、或いは山側を注意深く辿ると当時作られた石垣が僅かに残っているのを観察できると云った程度だ。その他の部分は古道を専門に研究している人を伴わずに一般のハイカーとして辿るのは多分無理だろうと随分長い間考えていた。例えば、警備道の北側起点の桃源村を訪ね日本橋跡を探そうと目論み、当地の警察署、消防署、林務局の方々に聞いてみたが誰も知る者がない有様だった。
或る日最近の山行記録を検索していたら、「鳴海三山」と呼ばれている三座の中級山の山行記録が十数枚の写真と共に公開されており、その写真の中に私がこれまで見たことも無かったような日本時代に敷設された規模の大きな登山道沿いの石垣の写真があった。鳴海三山とは、北から鳴海山(標高1,410メートル:高雄十名山の一つ)、網子山(同1,378メートル)、真我山(同1,063メートル)のことで、その後網子山が地形図上で括弧付きで四日市となっているのに気付き、実際は登山愛好家にはよく登られている鳴海三山の頂上を結ぶ稜線が六亀警備道の一部であることに漸く合点が行った。
実際そこを歩いてみるといまだにしっかりとした見事な駐在所と路側の石垣遺構が非常に短い間隔で残っている。鳴海山と網子山の頂上には駐在所遺構が残り、その中間に確かに二つの遺構(宮、桑名に相当?)が確認出来たが、同様に頂上に遺構を持つ真我山が当時何と呼ばれていたのかは、網子山と真我山間の現在の登山道が当時の警備道を忠実に辿っているかどうか怪しい部分があり特定は難しい。関、坂下辺りかもしれない。台湾の他の地区の古道としての警備道上の遺構が草と樹木の中に埋もれて行き痕跡が次第に覆い隠されていくなかで、少なくもこの三山の稜線上の遺構は強制的に撤去しない限り半永久的に残存し得る規模を持っている。>(メルマガ「台湾の声」2006年7月3日掲載分の一部を改編)次回へ続く...
【関連する記事】
- 六亀特別警備道−61:第49宿「土山」(2)
- 六亀特別警備道−60:第49宿「土山」
- 六亀特別警備道−59:第50宿「水口」
- 六亀特別警備道−58:第51宿「石部」
- 六亀特別警備道−57:第52宿「草津」(2)
- 六亀特別警備道−56:第52宿「草津」
- 六亀特別警備道−55:第53宿「大津」(3)
- 六亀特別警備道−54:第1宿「品川」(2)
- 六亀特別警備道−53:第1宿「品川」
- 六亀特別警備道−52:第12宿「沼津」(2)
- 六亀特別警備道−51:第12宿「沼津」
- 六亀特別警備道−50:林務局護管所(廃棄)
- 六亀特別警備道−49:第11宿「三島」
- 六亀特別警備道−48:第10宿「箱根」
- 六亀特別警備道−47:第9宿「小田原」
- 六亀特別警備道−46:第8宿「大磯」
- 六亀特別警備道−45:第7宿「平塚」
- 六亀特別警備道−44:第6宿「藤沢」
- 六亀特別警備道−43:小関山林道
- 六亀特別警備道−42:第28宿「見附」(3)