六亀警備道は、現在の南部横貫公路(俗称「南横」、“省”道20号線)のベースになった関山越嶺古道とその南側に開鑿された内鹿本越嶺古道と共に中央山脈南部(「南一段」)を跨ぐブヌン族に対する中央山脈を境にした東西からの大包囲網の西側の一部を形成していた。更に、この大包囲網の北側に位置する八通関越嶺古道と共にブヌン族を南北から挟撃するという地理的な位置にもあった。これらの警備道は一方ではブヌン族を山奥深く追い上げると共に、他方では各地のブヌン族に対する強制廃村・移住を敢行して行く為に機能することになる。
因みに、六亀警備道は関山、内鹿本、八通関よりも早く警備道として整備され、台湾南部では最も初期に開鑿された警備道だそうだ。五箇年計画理蕃事業は最初に台湾北部の警備道整備を謳ってあり、四年目以降に南部・東部の東西横断警備道の整備に移行する計画になっていたのだが、この南部・東部計画の最初に着工されたのが六亀警備道だったと考えられる。
六亀警備道と呼ばれてはいても六亀郷内にあるのではなく、桃源郷と茂林郷間に開鑿されている。警備道の北端は現在の高雄県桃源郷桃源村(日本時代表記:ガニ社)、南端が同県茂林郷多納村(日本時代表記:トナ社)、その間[艸/老]濃渓の東側山塊のほぼ標高千五百メートル前後の稜線上に開鑿され、全長七十余キロ、この間実に五十三ヶ所の駐在所を設置、これらの駐在所に北から順番に東海道の宿場町の名を冠し、六亀、美濃一帯で樟脳取りに従事する平地住民を原住民族の「出草」(首狩り)から守るという名目で強権を発動させたものである。
現在の内政部土地測量局製作の地形図を見ると確かに当時の名残りが地図上に若干残っている。即ち、北から順番に、小田原、藤枝、吉田(山)、御油(山)、鳴海(山)、(網子山)四日市、大津(山)、加えて私がネット上で見掛けた近年の山行記録等に、沼津、見附(山)、藤川の記載があった。尚、大津山に加え大津村が六亀郷と屏東県高樹郷の二ヶ所にあり、共に茂林・多納地区への玄関口になっているが、古道から大きく外れているので実際日本の大津に因んだものなのかは自信が無い。>(メルマガ「台湾の声」2006年7月3日掲載分の一部を改編)次回へ続く...
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