2006年07月23日

六亀特別警備道(扇平古道)−1

Kodou-1.JPG【写真説明】東海道第四十一宿「宮」に相当すると思われる駐在所遺構。同時に鳴海下山(標高1,372メートル)の山頂でもある。ここで無造作に捨て置かれたDai Nippon Brewery(大日本麦酒)の欠けたビール瓶を見付けたが、これは明らかに最近の山行者が掘り起こしたものをそのままにしておいたもの。実際、各地に残る日本時代の駐在所跡から一番多く「出土」するのは当時のビン類である。化粧品の容器まで出て来るという台湾側の報告を読んだことがあるが、こんな山中に婦女子までを同伴していたのかという驚きが報告の裏側にありそうだ。それぐらい現代人から見れば途方も無く山深い地まで理蕃道を開鑿したということである。

六亀特別警備道はいわば台湾版東海道五十三次である。

山歩きが好きな人でも耳慣れないこの古道は、高雄県・屏東県の二県八郷(桃源郷、六亀郷[ラクリイ/ラックゥ]、茂林郷、三地門郷[スティムル/サンティムン]、霧台郷、瑪家郷[マカザヤザ])に跨る南北に長い広大な茂林国家風景区の北東に位置する。

茂林国家風景区はその名が示す通り最初は茂林地区が風景区として指定されその後周辺地区を包含させていったもので、その北端は玉山国家公園の最南部に連なる。玉山群峰を源頭とする[艸/老]濃渓がこの風景区のほぼ中央を流れ、山と渓谷、岩と水とが様々に交錯する一大公園の趣きがある。[艸/老]濃渓はこの風景区を抜けると高雄県と屏東県の境を流れる高屏渓と合流、南下して今ではまぐろ(鮪)のメッカとしてすっかり有名なった屏東県東港から台湾海峡に流れ込む。

桃源のブヌン族とツォウ族、茂林と霧台のルカイ族、三地門と瑪家のパイワン族という分布が示すように、原住民族文化が非常に豊かな所でそれもこの風景区の大きな魅力の一つになっている。又、この風景区の北側半分、即ち桃源郷、六亀郷、茂林郷は温泉の宝庫、合計十二箇所を数えるが、その内温泉街を形成している宝来温泉と不老温泉(いずれも六亀郷)を除いては文字通り秘湯でありその多くが残念ながら一般の車でのアクセスが不便だ。

現在台湾で古道と呼ばれるその多くは、日本時代に於ける最終形態が原住民族に対する警備道(「理蕃道」)だったが、内政部林務局が現在指定している国家歩道の中で「警備道」の名前で呼ばれているのはこの古道のみ。しかもわざわざ「特別」の名が冠されているのだが、その理由に関しては林務局の資料には明解な説明が無い。

原住民族警備道の通常の形成は原住民族の生活道・婚姻道、及び清代の「開山撫番」道を警備道として整備、編入していった過程があるが、六亀警備道の場合、最初から隘勇線(あいゆうせん)を張り巡らし警備道化していった経緯があったからではないかと想像される。隘勇線とは清代の開山撫蕃下に於ける平地人と原住民族の居住区を区別する為の隘(勇)制を引き継いだもので、日本時代は原住民族に対する包囲線・封鎖線へと変遷、物理的には山中百五十メートル幅で草木を払い、道路を通し鉄条網を張り巡らし、更にその鉄条網に電流を流し原住民の「隔離」を図ったものである。日本時代の隘勇線の総延長は五百キロ弱に及んだと謂われ、第五代台湾総督府の佐久間左馬太により実施された「五箇年計画理蕃事業」(1910年、明治四十三年開始)に於いて隘勇線の永久道路化が五年目の目標として掲げられている。実際、理蕃事業とは樟脳に代表される産地資源を利用した殖産興業の推進を阻害するものの徹底排除というのがその基本性格だったと云われる。>(メルマガ「台湾の声」2006年7月3日掲載分の一部を改編)次回へ続く...
posted by 玉山 at 01:54| Comment(3) | TrackBack(0) | 六亀特別警備道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
正しくいうと“隘勇線”ではなく“防備線”ですね。
日本時代に南部の警備道に対して隘勇線という言葉を使った事は無かったと思います。

『蕃地飛行』という台湾警察航空班におられた方の回想録に大正十一年当時の空から見た六亀警備線のあざやかな描写がありますが、現在でも空から視認出来る程度の設備は残っているのでしょうか?
Posted by チャボ at 2009年09月30日 23:10
チャボさん;

コメントありがとうございます。成る程、厳密に言うとそうなるのでしょう。何せ、私が普段頼りにしているのは、台湾サイドの情報(中文)ですので、日本時代に実際どういう呼称が使われていたかは、想像する部分が大きいです。林務局は「警備道」の呼称を用いていますが、現地にある林務局の案内板には「隘勇」の文字も使ってあります。

「隘勇線」というのは私にとってはいまだに悩ましい呼称で、今まで色々歩いてきた中で、どれが実は「隘勇線」なのかはよく判らないというのが正直な所です。隘勇線、防備線、警備道、理蕃道…日本語でここら辺りを明確に線引きしてある資料なりをお持ちでしたら、ご紹介いただきたいのですが。

空から当時の設備が見えるか?見えません。これは確かです。設備と言っても石垣だけですから、傍を歩いて通ってすら見落としてしまうぐらい。六亀警備線の場合、道路そのものの認識も難しいと思います。(了)
Posted by 玉山 at 2009年10月01日 09:27
すみません、隘勇線について以前に明解な説明を読んだ事をある筈ですが、
どの本だったのか思いだせないので(たしか『台湾の蕃族』のどこかだったはず)、以下は殆んどうろ覚えです。

私は大正五年以前にタイヤル族(いわゆる北蕃)に対して布設された防備機関が隘勇線で、大正五年以後に布設されたブヌン族に対しての同様の設備が防備線だと認識していますが、理蕃誌稿でも防備線、警備線、警戒線という言葉をゴチャまぜに使っているので、防備線というのは公式の呼称ではなかったのかもしれません。
ただ隘勇線という呼称はタイヤルに対してのみ使われていたのは確かです。『台湾統治綜覧』に由来がでているのでもしよかったら御覧下さい。

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=61006795&VOL_NUM=00000&KOMA=71&ITYPE=0

また知っておられるかもしれませんが、『看見十九世紀台湾』という本の附録に大正二年当時の隘勇線が記載された地図の復刻版が付いています。

もう百年近く前の施設なので仕方が無いとはいえ道路の認識も難しい程荒れているとは少し残念です。
こういう近代遺跡は世界的に見てもあまり例がないと思うんですけどね。
Posted by チャボ at 2009年10月03日 23:48
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック