【写真説明】左写真、前回記事で粗末な階段だと書いたが、よく見ると日本時代に作られた神社に至る階段である。それが証拠に、階段を登り切った場所には鳥居を支えていた亀腹(かめばら)が左右とも残っていた。神社は旧社を完全に見降ろせる高台と云うより丘に設けられていた。
左二枚目の工事公告板には明確に「高士神社公園」と記載されている。ここまではっきり神社を押し出した公共施設はさすがに台湾でも少ない。公告板が外されていないのはまだ工事途中でいうことだろう。三枚目写真、小屋掛けしてあるのは、神社の基壇の部分だ。サイト内で以前の写真を見掛けたことがあるが、基壇には村民芸術家に依るオブジェが突っ立っていたし、藁ぶきによる小屋掛けだったのだが、そのオブジェは切り倒され、草ぼうぼうのまま、真新しい木製の小屋掛けに替わっている。まだ何も記載されていない案内板も立てられている。今後どのように整備して「公園」化するつもりなのだろう。
嘗て神社が立っていた場所は、360度視界を遮るものは何も無く、太平洋と台湾海峡が同時に見通せる。恒春半島の真ん中に居るのだ。
その神社跡の西側に一群の住居群が建設中だった。それが右写真である。2009年の八八水災後の高士村の移転地である。八八水災後の新移転先は台湾では「永久屋基地」と呼んでいる。歴史穀道案内板の地図に依ると、神社公園の東西両翼が移転地になっているが、現在住居工事が進んでいるのは西側のみだった。そこは日本時代に公学校があった地で、「公学校遺址」の記載が案内板地図にもあるが、両勇士ともその跡地をピン・ポイント出来るわけではない。又、日本時代の防空壕跡も神社公園付近にあることになっているが、これは蘇州に戻って来て、新ためて案内板中の地図を見ていて気付いたものだ。
この移転は高士村村民にとっては特別な意味を持つかもしれない。なにぜ、嘗ての居住地、クスクス社に回帰するのだから。
防空壕もそうだが、うっかりしていたのは、旧社跡に残る石板屋である。グ君、ガ君に訊ねるのさえ忘れていた。まあ、これでまた高士村を訪ねる動機が残るのが幸いである。(続く)
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