2011年06月11日

パイワン族秘道−41:中間路−2

Kodou-710.jpg Kodou-711.jpg Kodou-712.jpg
【写真説明】屏東県牡丹郷石門村中間路部落の移転先の写真三枚。左写真はその入口に立つ碑。中央写真は入口に一番近い建物の壁に手書きされた部落の移遷史。平仮名と片仮名の各一単語が交る。右写真は新装住居。

最近、2009年8月台湾を襲った八八水害(モーラコット台風)後の具体的な復旧状況を垣間見る機会に恵まれたので、今後数回の記事はそのことを含めて書くことにする。

中間路部落の新移転場所の落成式の様子は台湾現地のウェッブサイトからの引用という形で、「パイワン族秘道−38:中間路」の中で紹介した。今般はその中間路部落を過ぎて屏東県道199号線を牡丹ダム、石門郷役場方面へ向かいながら同県道が下りに転じる高台に今回掲載した写真のモダンな住居群が忽然と道路左手に顕れたのでちょっとびっくりした。すぐに上記サイトにアップされていた写真と同じものだというのは即座に合点が言ったが、県道脇に拓かれていたのは意外な気がした。又、そのモダンさはサイトの写真から具体的にイメージしてみるのは難しかった。

屏東県牡丹郷石門村復興路というのが県道から直接新移転先へ入る道路のことを指しているのであろう。前回の記事でも書いたが、石門村プリム(Puljimu)部落というのが2010年11月28日に移転・入居が開始された地の正式地名のようだ。

台湾原住民に然程関心の無い読者には退屈な記事だと思うが、私がこの中間路部落の新天地でおや?と思ったのは、戦後66年目を迎えた台湾の地で、衆目の案内板に僅か二つの単語とはいいまだに平仮名、片仮名を目撃したからである。新部落入口の第一軒目の建物の壁に、部落移遷史が手書きされているが、その全拙訳は以下の通りである。[ ]内は筆者註。

「カジャジャナン部落[中間路部落]の大部分は[現在の]屏東県獅子郷、日本時代に設置された高雄州潮州郡蕃地、ちやこぼこぼじ蕃[ママ]の出自である。各部落が纏まって牡丹郷に移遷してきたのは、又、(chofowful)[の?]大頭目(ruvaniyau)の後裔か直轄の居住民である。昭和19年[1944年]6月17日、高雄県知事は原住民に日本姓への改姓を認可した。民国35年[1946年]10月1日、本郷牡丹村16隣中間路の地へ、18戸、計90人が移遷した。民国45年[1956年]8月15日から、石門村1隣中間路へと改編された。民国96年[2007年]時点で全人口は179人、44戸(原住民以外も含む)である。本部落は本々は「大石部落」(オイシブラコ)[ママ]と呼ばれていた。というのは、当時の同部落のリーダーで、部落の為に尽くした戴貴福氏の日本語名が「大石正人」だったからだ。」

この移遷史でおもしろいのは、昭和19年になって高雄県知事が日本語名を名乗ることを原住民に許可したという部分だ。この昭和19年という年号は正しいのだろうか?という疑問もあるが、通常悪し様に言われる皇民化政策の一つとしての日本名への改姓が強制的であったという反証になるような記憶である。それにしても、五十年以上も経っても、同部落の戸数がやっと倍にしかなっていないのには驚かされる。

「ちやこぼこぼじ蕃」とは具体的に何処だったのか?は確実には特定出来ていないが、現在の獅子郷に相当する部分を当時の地形図で当たると「チャチャボボ」いう表記を見付けた。枋山の北東、獅子郷内獅村の南西にある山の名前に充てられている。上記説明中にある「屏東県獅子郷」、或いは「高雄州潮州郡蕃地」に相当している。尚、内獅村の位置は、日本時代の内文社の位置であることにこの「ちやこぼこぼじ蕃」を探しながら新たに気付いた。現在の内文社は獅子郷の遥か南方、牡丹郷との境界に近い所に移遷している。私が長年探している「南台湾騒擾事件碑」は内文社跡地にあると考えているのだが、内獅村に行けば手掛かりが掴めるかもしれない。この話はそのうちにもう一度蒸し返す機会があるかもしれない。(終わり)



posted by 玉山 at 20:35| 台北 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | パイワン族秘道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック