【写真説明】左写真は静観部落の入口に立つ指導標。二つ、或いは、三つ(左から、Sadu、Truku、Busiq)の部落名が記されているが、今回の記事を書くに当たって色々調べやっと「解読」出来たと思う。中央写真は、部落全体を撮影した積りでいたが、静観部落内の最大集落、サード。右写真は合作産業道路の実質的な終点、合作国民小学校の校庭。サード集落のドン突きである。
静観部落は、嘗てのトロツク社の位置であるが、今はサード社と呼ばれている。断っておくが、サード社が何か突然現れたわけでもない。複数部落が混在する場合、通常便宜的に最多数部落名で呼ぶようだ。現代漢音表記だと、最大部落が沙都(サード)でここに派出所、小学校があり、その他に、卜渓(西)(ブシ)、静観(トロツク)と存在する。又、沙都のことを下静観と呼んでいるのは、濁水渓沿いの最下段の河岸段丘上に集落があるのが沙都で、その上の段丘に卜渓と静観があるからだ。つまり、トロツクも消失したわけではなく、戦後戻ってきたということだ。
霧社事件以降、トロツク社の人々の大部分が現在の蘆山の地に遷されている。旧タウツア社の地を現在平静と呼び、トロツク社の地を静観と称し、同じ「静」の字を充てているのは戦後そう改称した時に為政者サイドに意図があったのだろう。
静観は台湾では新竹県尖石郷鎮西堡村(日本時代の表記はチンシボ社)と並び称される最高地点(1,800メートル?)にある原住民集落とか最奥の集落とかいう表現が流布しているが、実はこれらの意味はよく判らない。サード集落は前述したようい濁水渓脇にあり標高は1,400メートル程度、ブシもトロツクもサード集落より上段の段丘上にあると言っても1,500メートル程、畑地が集落後方の山を駆け上げるように広がっておりそれらの畑地の中には起居に使っている住居もあろう。そんな数え方をすれば2,000メートル程度までは稼げよう。但し、濁水渓対岸の斜面も同じように畑と住居がやがては合歓山に至る稜線、つまり中横まで競り上がっている。優に2,000メートルを超える場所にも集落は存在しているのだが。最奥?という表現は定義を明確にして貰わないと扱いに困る単語だ。能高山越嶺古道西段入口に至る省道14号線と合作産業道路の分岐から静観部落までは10キロ程度、しかも全線舗装されている。ということで、静観は非常に山深い地に位置しているという意味にとっておく。
実際の最奥と称される集落の外観は、このグーグル・アースから起こしたダイヤグラムを見て欲しい。上述したことが瞬時に判ると思う。ところで、静観部落内の各集落の位置をどのようにして割り出したのか?ネタは行政院原住民族委員会に依る『民国98年度モーラコット台風災害部落居住地新勘及び複勘作業[既/旦]安全評価報告書計画』である。同ダイヤグラム左側が濁水渓であるが、八八水災の際は土石流が発生したので、渓谷沿いは大分様変わりしたはずだ。(続く)
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