【写真説明】前回の記事で紹介した大同村と精英村+合作村の境界部分の濁水渓に何本の橋が掛かっているのか?は私は知らない。写真は実は平静部落ではなく、お隣の平和部落と対岸を結ぶ吊橋だ。対岸に渡り坂を詰めれば最後は清境農場方面に行き当たる。日本統治時代から、両岸のセデック族は吊橋を介し行き来きしていたようだが、それは日本人がそうさせたのだと思わざるを得ない程に谷は深い。何故、今回は吊橋の写真を持ち出したのかは、本文を参照願いたい。中央写真は現在の吊橋の遥か下に掛かる今は廃棄された旧橋で、日本時代にも同じ場所に掛かっていたかもしれない。濁水渓の水は実に鮮烈!
市販の地図を眺めていたら平静部落付近の濁水渓に「深堀瀧」という表記があるのに、最近になり気付いた。深堀とは明らかに日本人の姓である。
総督府に依る台湾統治が開始されると、主に自動車道、鉄道敷設を企図して中央山脈越えの踏査が開始される。調査隊が編成され、原住民族の居住地に踏み込んでいく過程で当然悲劇が起こる。『台湾登山小史』の中で沼井鐡太郎はこの時期を台湾登山史に於ける開拓探検時代と位置付けている。
「台湾日日新報」に大正6年(1917.11.3-1917.11.7)に五回に渡り連載された「開通せし台東鉄道」の中に以下の記述がある。鉄道敷設を目指した踏査の歴史を概述した部分である:
「。。。第三は後日伝うるところに依れば埔里社を起点とし南方に進路を取り分水嶺を通ずる旧道に由らずして花蓮港に出でんとして進発したる陸軍歩兵大尉深堀安一郎氏の一隊三十一年一月二十九日を以て分水嶺を踰えんとし遂に蕃人の要撃を受け十四名悉くミナッケン渓(埔里社の東方合歓山の西)に戦残し。。。」
深堀とはタウツア社蕃とトロツク社蕃に依り殺害された深堀大尉以下合計14名に因む。測量員、林学技師等から成る「中部線蕃地探検隊」が組織され埔里から入山する。さて、深堀大尉は日本人なので遭難から大凡二十年後に書かれた記事と雖も、日本人記者に依って書かれたものである限りはその記事で提供された情報は正確だと思ってしまう。
但し、台湾のサイトを見ていたら色々面白いことに気付いた。因みに、台湾側サイトでは「深堀瀧」で検索すると多くの記事、写真に行き当たるが、日本語サイトにて「深堀滝」で検索しても一点もヒットしなかった。日本ではもう忘れ去られたというか、当時はこのような対原住民の遭難事件は多発したので個々の事件は埋もれてしまったというのが実情かもしれない。さて、台湾日日新報の記事と相違する部分は以下の通りである:
●新聞記事は深堀大尉以下が遭難したのは、明治31年(1898年)となっているが、台湾のサイト情報は殆ど一年前倒しの明治30年で統一されている。
●ミナッケン渓とは何処か?は私自身は特定出来ていない。この記事は、私の手元にある市販地図帳の明記(平静部落の深堀瀧)を見て筆を起こしたものだが、実際、深堀瀧は何処にあるのか?どうも、平静部落ではなく最奥の静観村にあるようだ。最近撮影された写真に静観部落脇で撮影というキャプションが付けてあるサイトがあった。この後別な記事を起こすように、私自身も静観村を訪ねたことがある。吊橋を見た記憶はあるが滝には気付かなかった。
●「中部線蕃地探検隊」は深堀大尉も加え、14人で構成されていたのか?それとも15人か?両方の数字が入り乱れている。
深堀瀧と名付けたのは当然当時の日本人である。さて、では一行は一体何処で殺害されたのか?これが判らない、ミナッケン渓を特定出来ないので。更に遭難現場の特定を混乱させているのは、実はもう一つ深堀大尉に因んだ地名があるからだ。現代台湾市販地図帳上、能高山越嶺古道天池山荘北方に聳える山に「深堀山」(私の手元の地図帳では「堀」は「山/屈」の表記)の明記がある。標高3,311メートル、立派な三千メートル峰である。というより台湾百岳の一座、奇来主山南峰(3,358メートル)の直近の南峰なのだが、奇来主山南峰に登った時にはそんなことは皆目知らなかった。下写真正面の緩やかな山頂への稜線を描いているのが奇来主山南峰、同写真左側の一段低いピークが深堀山のようだ。能高山北峰(南華山、3,184メートル)の頂上付近から望んだもの。
深堀瀧は合歓山越嶺古道直下、深堀山は能高山越嶺古道脇である。渓谷底と三千メートル山頂、この間の直線距離は約8キロ。何故、このように離れた二点に深堀の名を冠したのかは謎だが、当時の台湾総督府はこの遭難事件を相当重要視していたようだという推測はそんなに外れていないかもしれない。
深堀大尉一行を襲ったのがタウツア社とトロツク社、台湾総督府は事件報復の為にマヘボ社等を介しこの両社に圧力を掛ける。これが後の「蜂起蕃」(マヘボ社等)と「味方蕃」(タウツア社とトロツク社)の逆転した構図の遠因となったと今現在台湾では説明されている。(続く)
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