【写真説明】南投県仁愛郷精英村平静部落、トーダ社(右写真にローマ字表記)の国民小学校。当時ここにテントを張らせていただいた。前にも書いたことがあるが、台湾では学校は露営地としては最高級の場所であるが、次第に締め出されつつある。但し、原住民主体の学校はまだまだ親切だ。
合作産業道路沿いのセデック族の集落は、繰り返すが、蘆山→平静→平和(以上が精英村)→平生→静観(以上が合作村)と並んでいる。前回の記事のように文章で如何に縷々と述べても、読者には全然ピンとこないのは重々承知しているので、「グーグル・アース」を利用して当該地のダイヤグラムを作ろうと試みたが、濁水渓の谷が深くて芳しいダイヤグラムが出来ない。仕方がないので、南投県仁愛郷の公式サイト(郷公所、即ち、役場は霧社に位置している)から地図を拝借してきた。霧社と清境農場は大同村にある。大同村と精英村+合作村の堺を流れるのが濁水渓である。尚、霧社事件の現場は主に大同村と春陽村である。
セデック族について。霧社事件に関わったのはセデック族である。日本ではセイダッカ等の呼称も使われるが、私のブログではセデックで統一する。
従来タイヤル族と看做されていた南投県に集中するセデック族は、長年に渡る正名運動の結果、2008年に第14族目の台湾原住民族に認定された。セデック族はタクダヤ、トゥダ、タロコの三グループがあり、中央山脈を越えて東隣の花蓮県側に移住したセデック族の中では、タロコが最大勢力になったという歴史的な経緯があり、本々は南投県側のセデックと出自は同じとされている。そのタロコ族の方はセデック族より早く、2004年に12族目として認定されている。
セデックの台湾現代表記は先の仁愛郷村落一覧表の「族群」欄にあるように「賽徳克」、セデック族が主に居住する現在の行政区域を青塗りで示したが、それらの祖先が霧社事件に直接関わったり、或いは中立の立場を採ったりした。前者に関しては、所謂「蜂起蕃」と「味方蕃」に分かれることになる。
事件後、台湾総督府により強制移遷させられた集落もあり、又、総督府が巧妙にその後に入れたりした集落もあったので、当時の集落名を手掛かりに、今現在の集落を蜂起蕃と味方蕃に区分けするのは難しい―と考えていたが、実は今でも非常に敏感な問題なので、敢えてその区分けには触れない、或いは暗黙の了解が出来上がっているようだというのに気付いたのは、迂闊なことについ最近になってからである。以前の記事の中で、現在の蘆山部落=ボアルン社=蜂起蕃と簡単な等式で扱ってしまったが、事はそうそう単純ではないはずだ。
殊に、嘗ての味方蕃の取扱いは難しいと感じたのは、味方蕃の一つ、タウツア社(現代カタカナ表記では多分トウツァだと思う)は今現在の平静部落の位置にあったのだが、台湾のサイトを覗いても、平静は嘗てタウツア社が存在した場所であるという説明は見付けられなかった。今はトーダ社と称している。私はどのようにして特定したのか?というと新旧の地図帳を比べたのである。後、沼井鐡太郎の『台湾登山小史』中文翻訳版の中で、そういう註が付いていた。何故、そんな本を捲ったのかは後で説明する。
平静国民小学校に当校の歴史を簡単に記したプレートがあり、以下のような記述になっている。[ ]内は私の註である:
「本校の前身は斗截(多達)[トーダ]蕃童教育所で、民国四年(1915年[大正4年])五月七日創立。民国三十五年(1946年)、斗陸[トロツク、現在の静観の地]、斗截、富士[現在の蘆山の地]の三蕃童教育所が統合され、現在の平静国民小学校の地に合作国民学校として設立。民国四十七年(1958年)八月、平静国民学校へ改称、、民国五十七年(1968年)、南投県仁愛郷平静国民小学校となり現在に至る。」日本人がタウツアと表記した現代台湾漢語表記は斗截であることが判るが、現代台湾では、他に陶渣とか色々な漢字が充てられ表記される。(続く)
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