【写真説明】左写真は、能高山越嶺古道西段入口、屯原に立つ二つの国家歩道、「高山歩道」(登山道)と「歴史歩道」(古道)の標識。標識に示された距離は、国家歩道に指定された歩道全長。南華山(能高山北峰)と能高山主峰を結ぶ稜線の最低鞍部までの最初の約15キロは、この二つの歩道の共通部分である。以前は無かった標識なのでここに掲載した。中央写真は古道沿線の紅葉、台湾の場合、11月下旬から12月に掛けてが最も見頃。右写真は、雲海保線所(旧尾上駐在所)から望む夕陽。
2010年11月末、凡そ三年振りに当該古道を訪ねた。目的は、台湾百岳の一座に「手軽に」登攀しようという魂胆である。手軽とは、一泊二日で、という意味である。もうそんなお手軽百岳のネタも尽きつつある。奇莱主山南峰(標高3,358m、40号)はその僅かに残された一座だ。
古道入口付近の崩壊は相変わらず進んでいる。山肌の崩壊が進むと、通常は登山道は崩壊部の上部へ上部へと移動しながら迂回していくので、登山者にとっては辛い。例えば、「能高山越嶺古道−16」の中央写真に写る登山者を意匠した看板横を通る登山道は最早使われておらず、その上部へとコースを変えていた。
能高山越嶺古道西段の従来からの崩壊部はこの屯原入口付近ともう一つ雲海保線所(旧尾上駐在所)を登り方向に凡そ1キロ程行った辺りに大きな口を空けている。ここは、もう崩壊部が山肌を突き抜けて稜線にまで至っており(下左写真)、崩壊部上部に登山道を移動させる余地が無くなっていた。ひどい崩壊部の真っ只中(下右写真)を渡り歩かなくてはならず、崩壊部面の岩石は何時転がり出すか?全く判らないので危険この上ない。特に女性の登山客は恐る恐るこの崩壊部を辿ることになるので、落石の危険に身を任せる時間が長くなり、その前後を歩く登山客も然りである。特に降雨後はその危険が増大する。その内に大幅な登山コースの変更、崩壊部上部はもう余裕が無いので、崩壊部遙か下側を歩くようなコース設定を余儀なくされるのは時間の問題であろう。
上右写真は、この大崩壊部の最も雲海保線所に近い部分を撮影したものである。同写真下側にオレンジ色の橋柱が見えるが、オリジナルの登山道、最早使われていない。その左上側に小道が写っているが、最下段の橋が使えなくなったので移動したものだ。今はこれも廃棄され、同写真左上端に緑の縁取り様のものが写っているのが、現在使われている登山道である。冒頭で書いた、上部へ上部へと移動しながら迂回していく実例である。(続く)
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