2011年03月12日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−28

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【写真説明】とうとう「大日本琉球藩民五十四名墓」への入口に交通標識が設えられた。幹線自動車道脇の道路標識だけではない。そこから墳墓に至る道は中央写真に見るモダンな煉瓦敷きになり、且つ、右写真に見る太陽電池付きミニ灯篭が墳墓へ誘う。墳墓近くには日本の神社鳥居を意識した木製ゲートまである。以上は墳墓に纏わる歴史を知れば過剰な意匠である。昨年2010年11月末撮影。

以前、このブログも含め何箇所かで次のようなことを書いてきた:良くも悪くも台湾近代幕開けに纏わる遺跡なのだから、せめて墳墓入口を示す標識ぐらいは設置してもいいのではないか?今は「良くも悪くも」という言い回しは妥当性に欠く表現だと考えている。台湾の近代幕開けが牡丹社事件と言えるなら、幕は抉じ開けられたと表現した方が史実に近いという意味である。大城立裕の『小説琉球処分』(講談社、1968年)を読み始めて思うことだった。

以前の記事で、宮國文雄著『宮古島民台湾遭難事件−宮古島歴史物語』が史実に対し正確ではないか?と書いたが、その後、「琉球大学学術リポジトリ」の中の以下の論文を見付けた。私は学者ではないので、最高学府の論文の良し悪しを判断出来るわけではないが、少なくとも、当時の牡丹社事件の当事者の子孫がそうであることを強烈に意識して書かれたという点ではユニークであるはずだ。論文タイトルのSinvaudjan(新保将、シンボジャン)は現在の牡丹村をもともと形成していた部族の一つ、牡丹社パイワン族のことである。実際書かれたのは訳文が上梓された凡そ十年前である。

高加馨著、里井洋一訳(2008年8月)
Sinvaudjanから見た牡丹社事件(上)
Sinvaudjanから見た牡丹社事件(下)

冒頭で以下のように明確に目的と動機が述べられている:

■(牡丹社事件関連)文献資料は日本語と中国語文献が主要なものであり、かつ牡丹社事件を牡丹社あるいは高士仏社の観点から論述されたものはない。文献研究と聞き取り調査によって、総体として整理比較研究を行い、Sinvaudjanから観た牡丹社事件の見解と結論を提起する。

■小さい時から「石門古戦場」を通って、その地勢に圧倒され、そこは、ほんとうに−つの天然の障壁であった。年を経るにしたがって、「石門古戦場」の伝説に対して更に多くの好奇心と疑問を持った。とはいえすぐに筆者を当時の歴史を探究することにはつながらなかった。あるいは莊漠とはしていたが少しは関連していたのかもしれない。大学1年で台湾史を学んでいた時、「牡丹社事件」というテーマがあった。牡丹社、それはまさしく筆者の故郷である。内心で思わず「おまえが取り組まなくて、誰が適任といえるのか?」という声が鳴り響いた。後に卒業論文を書かなくてならなくなった時、ついにその時代を探求する機会を得た。筆者は全身全霊をうちこみ、その時代の祖先の英雄的事績、すなわちSinvaudjanの子孫としての観点でもって新たな牡丹社事件の解釈を感得することができた。

又、何故、宮古島漂流民は殺害されたのか?に対しては以下の明確な見解で結ばれている。これは、現代では出草(首狩り)の風習は完全に遺棄された一方で、当時の山河はいまだにそのまま健在している中で、先に紹介した旧社案内板の注意書き「妄りに入山して伝統的なタブーや関連法令を犯さないこと」に相呼応するものであり、現代でも原住民族の故地に対しては敬意を払わなければならないということだと、新たに自身に言い聞かせたものだ:

■当時の状況は、qalja(外力・敵人)が領地に侵入しさえすれば、機械的に首を取るというだけであった。例外はない。当時の風俗民情はこのようであった。そうでなければ当時の部落社会の秩序がどのようにして維持できたのであろうか。自由勝手にqaljaの侵入を認めることができようか。これは族群にとっての安全管理である。防衛は必要で、処理するにあたっては確実極めて強硬に行われる。ただこれしか方法がなかったのである。(了)
posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 恒春卑南古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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