2011年02月26日

パイワン族秘道−39:クスクス社

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【写真説明】恒春半島内の自動車幹線道沿いに茶色の交通標識で登山口を示しているのは、私が知る限り二つしかない。高士佛(クスクス)山(標高514メートル)と女仍山(同804メートル)がそれである。クスクス山の方は、標識も立派なら、登山道沿線の施設も立派だが、何しろ緯度上は熱帯の上に例年複数の台風が襲いかかるので、今現在は写真に写る木製の施設は大分くたびれているはずだ。前回の記事で紹介したように、中間路から産業道路を辿れば同山の頂上に至るが、何故か登山口が中間路より東側の自動車道脇に設けられて、その登山道は中間路からの産業道路と往き合うように設えてある。中央写真は丈の高い茅に覆われた頂上施設。どうも三角点そのものを見た記憶がない。登り100分、2,500メートルの案内が登山口付近に出ていたが、一時間程度で頂上まで辿り着けた。途中、蟲蛇に注意!の警告標が目立つ。前回、今回、次回の記事閲覧の便宜を図る為にダイヤグラムを作成したので、参考にしていただきたい。特に、牡丹社事件に関する下りを視覚的にイメージし易いのではないかと希望するものである。

クスクス社旧社跡は、クスクス山頂上付近にあると聞いたのは、2007年10月クロサ台風(15号)が台湾を抜けようとしている頃に登った後で、台風で倒された樹木を跨ぎ跨ぎ登ったので、それだけに惜しいことをしたものだと思い続けていた。

但し、本当に頂上付近まで旧社が広がっていたかどうか?怪しいと思い始めたのは日本時代の地形図復刻版である『臺灣地形圖新解』を見て、クスクス山頂上と旧社、現在の高士部落の位置を確認してからである。その後、関連サイトを検めてみると、クスクス「山上」という表現が多いのに気付いた。私がそれらを勝手に「頂上」と解していたかもしれない。

いずれにしても、クスクス旧社は機会を作り尋ねたいと考えているが、中間路のように案内板を頼りに自分一人で山中に分け入ってもまず行き付けまい。予め、高士国民小学校に連絡を取り案内人を用立てていただく積りだ。実際、同校の公式サイトが最も良質の高士村の案内になっている

現在の高士集落を見下ろす場所に立つ案内板には、七度の移遷を繰り返し現在の集落に落ち着いたという解説があるが、具体的にどの期間を指し、どういう順路で移動してきたのかは不明、何の為に「七」という数字を強調したかったのか?総督府に依る強制移遷を言外に示唆しているのは、日本時代に当地に駐在所、公学校があったという解説が続くからだ。いずれにしても、歴史の長い大社であったことは事実のようだ。

さて、台湾に関心の高い方々の近現代史にクスクス社は少なくとも二度登場する。牡丹社事件(1871年、明治4年)とNHKスペシャル「人間動物園」捏造報道(2009年、平成21年4月)である。後者については、これに四個月程後、同地も含め甚大な被害を被った八八水災、モーラコット台風を歴史的な事件として付け加えるが、「JAPANデビュー第一回 」『アジアの一等国』の方を本ブログの読者の方に解説する必要はないと思う。

前者に関して少々述べる。というのは、未だにこの事件に関しネット上で提供される情報は錯綜としており、一般の閲覧者は容易に騙されるからである。私とて、遭難したのが琉球の漁船、従って八瑤湾に漂着した乗組員は漁民だと思い込んでいたのを、然る碩学に注意された。「漁民」、「漁船」の説明は現代でもネット上を闊歩(例:ウィキペディアですら)している。以下は、宮國文雄著『宮古島民台湾遭難事件ー宮古島歴史物語』(那覇出版社、1998年5月初版)のダイジェスト版を参照にしたものなので、巷に流布している情報よりはかなり正確だと思われる。

実際は、今風に言えば、宮古船籍2隻、八重山船籍2隻で組まれた春立船、文字通り、毎年春に年貢を首里に納める為に組まれた船団、その帰りに台風に遭う。冬場にも台風は発生することがあるので春の台風も奇しくもなかろうが、台風並に発達した低気圧である春の嵐のことか?同事件の現代版解説では、遭難した船団は宮古島島民のみで組まれており、従って遭難したのは宮古島島民と理解せざるを得ないような書き方がしてあるが、実際そのまま帰帆出来たのは宮古船籍の一隻のみで、後の三隻が遭難、このうち、八瑤湾に漂着したのが宮古船籍の乗組員、八重山船籍の一隻は台湾西海岸側に漂着している。つまり、八重山船籍のもう一隻は海の藻屑と消えたということになる。尚、年貢という単語は一般の日本人は米を想像してしまうが、、恐らく貢納布、紬が中心ではなかったろうか?尚、東海岸に流された宮古人の内訳は、19人の役人、従内と称する士族の随行者11名、供と称する平民の随行者21名、及び船頭を含む乗組員18名の合計69名、漁船とは似つかぬ構成である。

さて、溺死を免れ八瑤湾に上陸した66人の宮古島島民の内、54人が原住民に依り殺害されるのだが、牡丹社にまず迷い込み、一部が殺害、逃げ出した残りは牡丹渓から南側の山を越えて彷徨、クスクス社に迷い込み、更に殺害されたという順番なら、単に、原住民によって殺害された、その報復を方便に乗り込んで来た西郷従道軍と干戈を交えたのが、牡丹社・クスクス社の兵(つわもの)だったという説明が納得しやすくなる。加えて、当時両社の間には連絡道があったという説明を加わえれば、更に判り易い。但し、西郷軍が戦ったのは、この両社の連合軍だったのか?局地的に各々のパイワン族と戦火を交えたのか?ここら辺りも曖昧模糊としているのだが、石門古戦場の一単語で片付けられてきた部分だと思う。

66マイナス54の遭難生残り12名は、車城、楓港、鳳山、台湾府城、福州、那覇の順番で約七個月半掛けて沖縄に戻ったそうだ。当時の台湾は同治年間で、台湾府一府の下に五県三庁の時代であり、台湾府城とは現在の台南市のはずだ。

今回の記事のタイトルはクスクス社になっているが、実際旧社を尋ねた時点で記事内容を旧社に絞りアップデートする積りだ。今回の主役は実はクスクス社ではなく、クスクス山の方である。こうでもこじつけていかなければ、ローカルな低山をなかなか紹介出来る機会が無い。(了)


【訂正:お詫び(2011年3月13日)】どうも今回の記事がいい加減な内容になっていると判ったのは、「恒春卑南古道(阿朗伊古道)−28」の記事中で紹介してある、高加馨著、里井洋一訳(2008年8月)『Sinvaudjanから見た牡丹社事件(上・下)』(琉球大学学術デポジトリ)を読んでからである。この論文は恐らく牡丹社事件関連の研究者の間ではよく知られているのかもしれない。いずれにしても、宮古島島民は八瑤湾に漂着後、どういう経路で何処に迷い込みどう殺害されたのか?その概要は、宮國文雄著『宮古島民台湾遭難事件ー宮古島歴史物語』のダイジェスト版で理解出来たと考えていたのだが、自身でダイヤグラムを作成した時に感じた疑問、本当に最初に迷い込んだのは当時の牡丹社だったのか?に、高氏の論文は答えてくれていた。

迷い込んだのはクスクス社の方である。この方が地理的にも理に叶う。最初に牡丹社に迷い込み、そこから更にクスクス社に迷い込む為には相当な距離を踏破しそれに応じた体力が必要になるからである。六十余人もの大人数、身分により体力にも差があるはずで、加えて、漂流・漂着したので飲食物は尽きていた可能性が大きく、しかも南台湾という熱帯の地である。台湾中央山脈がその高度を500メートル前後に落としている地域とは云え、その山中を徘徊するのは現在でも容易厭わざることである。

実際は漂流民生き残りの沖縄帰着後の報告書が存在する。当時琉球に派遣されていた鹿児島県伝事奈良原繁と伊地知貞馨が聞き取り、「右十二人ノ内宮古人仲本筑登之島袋筑登之ヨリノ聞書」がそれである。この聴聞書がこの事件の根本史料となってきており、高氏もそれをベースにしている。但し、その報告書通りのことが実際起こったのかどうかは無論誰も判らない。

加えて、「西郷軍が戦ったのは、この両社の連合軍だったのか?局地的に各々のパイワン族と戦火を交えたのか?ここら辺りも曖昧模糊としている」と書いたが、征台の役の戦端から終局まではかなり明確になっているのも、高氏の同論文で再認識した次第である。牡丹社事件当事者の子孫達とのインタビューを中心に据えて構成された論文なので非常に読み易い。是非ご一読いただきたい。(了)
posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | パイワン族秘道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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