2010年12月11日
鳴鳳古道−1
【写真説明】鳴鳳古道は台湾人によく歩かれてきたので、出入口も複数あり、「古道」という看板が特に特別な感じがせず、しっくりしている。そのような出入口の三枚。中央写真は同古道の入口としては最も知られた鳴鳳山雲洞宮。
鳴鳳古道は規模こそ小さいが、古道上所々に敷かれた苔むした敷石とその周りの豊富な樹木の取り合わせは、これこそ古道という雰囲気が充満しており、それだけに古道歩きの入門コースとしては最適な上、普通乗用車で古道入口までアクセス出来るのも利点だ。又、起伏が多いが、極端に高度を稼ぐ必要もない為、適度な運動の機会ともなる。
鳴鳳古道は頭屋郷と獅潭郷の境を走る最高点が500メートルをやっと越えるぐらいの低い山を跨いでおり、獅潭郷側に降りると獅潭の街に到る。古道の名前は古道西側入口、頭屋郷側にある鳴鳳山雲洞宮というお寺の名前に因んでいる。このお寺の付近の標高が400メートル強。
以前掲載した「挑塩古道−1」の記事中、(2)で述べた「後龍渓の支流が形成する非常に狭い平野部」、即ち、現在の省道3号線の苗栗県に含まれる部分は、日本統治時代は一般居住区域(西側)と原住民居住区域(東側)の境界、当時「蕃界」と呼ばれた線にほぼ沿っていた。鳴鳳山一帯はもともとはサイセット族の狩猟区域だったそうだが、清朝光緒年間(1867年)に黄南球(註)率いる開墾団が入植してからは、これら漢人開墾者とサイセット族が鬩ぎ合っていた場所で、今でも「大銃櫃」、「打鍋片」等の地名が残っており当時の抗争を髣髴とさせる。古道東側入口の省道13号線沿いに黄南球の開墾者としての功績を讃える獅潭郷義民廟(苗栗県内の義民廟は合計五箇所)があり彼の銅像が鎮座している。>(メルマガ「台湾の声」2009年1月12日掲載分『苗栗県の古道』の一部を改編)次回へ続く...
(註)獅潭郷義民廟にある黄南球(1840〜1919年)の銅像下の石碑には、彼の生い立ちと功績が縷々と説明されているが、祖籍広東省とあるだけで何故か何処で生まれたかの記述が無い。実際は現在の桃園県楊梅の生まれ、二十歳になる前に苗栗県へ移り住み、三湾、南庄、獅潭、大湖一帯の最初の開墾に従事、日清戦争時は抗日グループを組織、同戦争後は大陸に渡る。その後、台湾総督府から新竹庁参事に乞われたとされる。
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