2010年12月04日

挑塩古道−7

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【写真説明】恐らく台湾の神社にご興味のある方には虎頭山中の通霄神社は非常に知られていると思うので、記事や写真を掲載するのを躊躇したのが、個人的には余りにも見事に保存されているのに仰天した故、敢えて掲載させていただく。左から順に、鳥居、本殿基座、社務所。前回の記事の社務所に関する下りのように通霄神社は荒れるに任せてあるわけではなく、実は公園の一部としてきちんと整備されているのである。どれくらいの意気込みで、そして何時整備されたか?公園内の通霄神社遺構の核心部に立つ案内板全訳(原文は中文:筆者拙訳)を以下に掲載する。最後の段の訳は日本語になっていないが勘弁していただきたい。日本人は苗栗県と通霄鎮に感謝しなければならないと思う。

<ハジメ>通霄神社修復誌

本歴史建築は元々は日本統治時代に建てられた「神社」であり、日本時代昭和年間の「新竹州誌」の記載内容に依ると、神社名は「通霄神社」、昭和12年(1937年)1月23日鎮座、主要祭神は天照大神、並びに北白川宮能久親王である。

1945年第二次世界大戦終結後、台湾統治権が国民政府に移ると、神社本殿は廃棄され基座のみが残存、拝殿は民国36年[1947年]に忠烈祠に改装され民国80年[1991年]頃まで使用、安平郡王鄭成功と先烈が奉祀されていた。部分的には廃棄されたり改装されたりはしたが、神社社域全体の保存状態は完全に近く、参道、拝殿、社務所、鳥居が残っていた。

忠烈祠が遷された後、全体の構造物並びに付属施設は人災・天災の両方を被り、加えて地方政府の財源にも限界があり、次第に傷みが激しくなった。民国88年[1999年]の九二一震災の際は当地も襲われ、神社遺構も厳重な損害を被った。

歴史史跡の地方文化発展に於ける重要性を鑑み、九二一震災後、通霄鎮役場では苗栗県政府に対して申請、民国91年[2002年]11月26日、「通霄神社」は歴史建築に登録され、加えて、行政院九二一震災後復興推進委員会並びに行政院文化建設委員会から神社修復の為の経費を獲得、民国92年[2003年]、郭俊沛建築事務所に修復調査・研究を委託、幾多の歴史・建築の専門家の審議を経て、歴年の改建からオリジナルの形態と風貌を掘り起こした。修復工事は民国93年[2004年]入札公示、慶仁営造株式会社が施工、民国94年1月24日に修復が完了した。

歴史建築の保存とは、実際の建築物の修復・保存のみならず、更に重要なことは、その歴史的意義を留め、未来にわたる省察と再生の基礎を提供することである。「通霄神社」は日本統治時代に「皇民化」政策を貫徹する為に作られた建築物である。その後国民政府に引き継がれた後も、皇民化とは別の一種の国家意識を助成する為の「忠烈祠」として使用された。それらを通じ、多元的な文化的意義が涵養され、台湾というこの土地の歴史過程をも代表している。この度の修復を通じ、民衆の生活周辺の地理、歴史、社会等多方面に渡る理解を深め、異なる文化の美を鑑賞し、長い歴史の中で凝縮された多元的な体験の機会を持つことを期待するものである。近代台湾は異なる政治機構を経験してきたが、譬え過去の社会記憶が異なるにしても、未来は必ずや我々の相互理解の路上にあることを信じ、共に前進するものである。

苗栗県県長 伝学鵬
通霄鎮鎮長 巫恒昭 謹識
中華民国94年1月<オワリ>
(挑塩古道:了)
ラベル:台湾 台湾古道
posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 挑塩古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんばんは。喜早です。
過日のメルマガを読んだ人から「ここの神社
には狛犬があるこどうか」と質問がありました。
ぼくは「なかったようです。」と答えましたが
実際はあるのでしょうか?それともどこかへ
移したのでしょうか。ご存知でしたら教えて
下さい。
Posted by kiso at 2011年02月05日 22:02
喜早様;

返事が遅くなり申し訳ありません。さあ、私も狛犬を見た記憶はありませんが。(了)
Posted by 西豊穣 at 2011年02月07日 07:29
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