2010年11月27日

挑塩古道−6

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【写真説明】左写真は銅鑼サイクリング・コースが走る丘陵地帯から苗栗県通霄方面と台湾海峡を望んだもの。海岸沿いに白い数本の棒が見えるが通霄火力発電所の煙突、その右側の白い塊が通霄の市街地、更にその右の低く裾を引くのが虎頭山。二枚目写真はその虎頭山頂上にある「台湾光複記念碑」。実は砲身と碇を組み合わせたデザインの「日露戦役望楼記念碑」である。元々、日露戦争時、虎頭山頂上に置かれた監視処が台湾海峡を通過するバルチック艦隊を発見、この通報がその後の日本海海戦の勝利に大いに貢献したという「故事」が背景にあるかもしれない。三枚目の写真の碑の下部詳細。碑上の年号は日本年号では1946年、昭和21年、日露戦役記念碑が光復記念碑に変えられた日付けである。右写真は虎頭山頂上二等三角点、日本時代に埋定されたもの。

通霄の地名は「挑塩古道」シリーズの記事の中に何度も出した。更に、虎頭[山/(土欠)]の名前も出て来た。今回の記事は挑塩古道-虎頭[山/(土欠)]古道が残る丘陵地帯から台湾海峡側に降りて、その海岸にある通霄の街中にあるその名も虎頭山を訪ねることにする。

この虎頭山は百メートルにも満たない山であるが、日本人にとってみたら実に驚くべきものが二つある。それらはどちらも、虎頭山公園に包含されるのであるが、一つは山頂に立つ「日露戦役望楼記念碑」であり、もう一つは通霄神社である。私は何故この虎頭山を目指したのかどうも記憶が定かではない。二つのいずれかを何かで見て、機会があればちょっと立ち寄ってみようと考えていたはずだ。多分前者である。そして後者――当時のまま完全な形で残っていながら何の修復も施されずそれでもいまだに人が住んでいる社務所――にまず行き当たり仰天してしまい、前者の実物を見て又考えさせられたわけだ。

虎頭山頂上に二つの碑文が存在する。その一つは「虎頭山公園建設誌」で、虎頭山の沿革と公園建設までの経緯が述べられたもので、中文である。もう一つは、「通霄鎮歌」という詩と明らかに西洋音楽のものではない楽譜らしきものが付された碑を頭にいただき、その下に日本語、英語、二枚のプレートが並べ嵌めこまれた碑文である。日本語の碑の頭には「碑文」とだけ記され、その後に七言律詩が附されている。デジカメに収めたのだが残念ながら判然としない文字が多過ぎる。ここでは碑文本文のみを全掲する。実物は旧字体が混じるがここではそれらは新字体に改めた。

<ハジメ>「通霄鎮歌」「詞曲 邱紹俊」
「碑文」
[七言律詩省略]

本町の虎頭山は、苗栗県西海岸の丘陵に近い、最も高いところに位置しており、山脈は綿々として連なり、又の名を旗山と称し、海抜93.42メートル、全町を見下ろし、通霄渓これを囲繞して流れ、山水絶妙、景色錦の如し。ここより台湾海峡を眺望するに、往来する船ことごとく目に入る。故に「虎嶼海観潮」の誉れあり、夙に苗栗県十二景の一つとして名を知られる。苗栗県誌の虎頭山に対する描写は:「その形たるや猛虎頭を上げて嘯き、浜辺に岐立して、海を睥睨するが如し、水天相連なり、波濤さかまき、白浪天を撃ち、風静かなれば鏡の如く、船行き来し、鴎飛び交う。砂浜銀の如し。昔の人これを称して呑霄魚艇の勝景なりと。誠に然りなり。」

1904年2月(清の光緒30年)日露戦争勃発、乃木将軍は日本陸軍第四軍を指揮して、当時ロシヤの占拠する中国遼東半島の旅順祖界地を攻撃す。ロシヤもバルチック艦隊を遼東に派遣して、日本海軍と雌雄を決して、連敗の恥辱を雪がんとす。日本国海軍連合艦隊司令長官東郷平八郎、ロシヤ艦隊北欧より日本に来るに須く大西洋よりアフリカ大陸南端の喜望峰を廻り、海路必ず台湾海峡を経過するを知る。敵の機先を制せんと、虎頭山に情報基地を設け、通信兵を進駐せしめて日夜監視せしめる。

1905年5月(清の光緒31年)ロシヤ艦隊台湾海峡を通る。基地進駐の通信兵これを発覚、直ちに日本軍に通報、日露両艦隊遂に対馬海峡に於いて決戦、ロシヤ艦隊大敗北せり。日露戦争終結後、日本国この地の海戦に対する貢献の巨大なるに基つを[ママ]、大正年間に日露戦役望楼記念碑を建立する。第二次世界大戦後、中華民国駐留軍碑文を台湾光復記念碑と改名せり。本町役所虎頭山公園建設に際し、貴重なる史跡及び時間文化遺産を忠実保存するが為、特に整備し以て子々孫々の歴史の証拠とす。

註:碑文考証者 元通霄国民小学校長 邱雲炎  通霄鎮公所秘書 李玉騰

通霄鎮鎮長 邱紹俊 謹んで記す
翻訳 蘇栄焜
中華民国87年元月(公元1998年)
<オワリ>

日露戦争史を少しでも齧ったことがあれば、この碑文に一つだけ史実に反することが書かれていることにすぐ気付くと思う。バルチック艦隊は結局台湾海峡を通過せず、太平洋側を抜けていったからだ。碑文を起草された邱鎮長の記憶違いか?或いは、碑文に依ると大正年間建立ということだが、この地では、バルチック艦隊は台湾海峡を通過したと綿々と信じられて来たのか?

邱鎮長の最後の一文が泣かせる。翻訳者の蘇さんの日本語は残念ながら現代の殆どの日本人のそれより優雅と言わざるを得ない。(続く)
posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☁| Comment(4) | TrackBack(0) | 挑塩古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして。台中に住んでいる日本人で喜早と
申します。過日通宵に神社跡があるのを知り、見に行ってきました。偶然虎頭山の頂上にこの記念碑も発見。誰かが紹介していないかとネットで検索したところ貴ブログに辿り着きました。実はお願いがあります。ぼくが配信している台湾紹介のメルマガの記事にしたく、この碑文と神社の修復碑文を引用させてもらいたいのですがいいでしょうか? よろしくお願いします。
Posted by 喜早天海 at 2010年12月29日 22:16
喜早天海様;

弊ブログをご訪問いただき誠にありがとうございました。

碑文に関してはどうぞご自由に引用して下さい。出所をご明記いただければ、ありがたいです。宜しくお願い致します。(了)
Posted by 西豊穣 at 2010年12月30日 19:07
喜早天海様;

貴ブログを確認せずに、コメントへの返事を出してしまいました。「遥かなり台湾」を主宰なさっていたことを知らず誠に失礼致しました。私も以前より貴メルマガを定期配信して貰っており、その内容に敬服しております。末永いご活躍を祈念致します。(了)
Posted by 西豊穣 at 2011年01月03日 09:51
こんばんは。喜早です。
昨日配信したメルマガ記事をブログ「台湾
見聞録」に写真を入れて載せました。
どうかご確認ください。

ブログ「台湾見聞録」
海線の旅(通霄編)1〜3
http://blogs.yahoo.co.jp/kisousan/

今後ともよろしくお願いします。
Posted by 喜早天海 at 2011年01月08日 20:37
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