2010年10月09日
『水の古道』曹公[土川]−6
【写真説明】左写真は九曲堂駅の近くにある残るパイナップル工場遺構。九曲堂は日本時代、南台湾を代表する缶詰パイナップルの大産地だった。『水の古道』曹公[土川]−2に掲載した写真の九曲堂駅前広場の白亜の像を思い出して欲しい。当該遺構は、もともとは泰芳商会第三、四(鳳梨)缶詰工場だった。経営者は台湾人。その後、台湾合同鳳梨株式会社の事務所として使われた。但し、当時、九曲堂駅周辺にあった缶詰会社は泰芳商会だけではなかった。日本資本も併せ6社が犇めいていたそうだ。詳細は本文記事並びに参考サイトを参照して欲しい。右写真は駅前通りに立つ煉瓦を利用した観光の為の意匠。何故、煉瓦なのか?一つは、旧パイナップル缶詰工場遺構の延長線上にある。もう一つは次回紹介する予定である。
さて、大凡水の話はネタ切れになったので、九曲堂に戻ろう。ここの駅周辺は何の特徴も無い田舎駅だったのだろうと云う想像は然程外れていないはずだ。一体、現在の台湾で日本時代の遺物・遺構を簡便に探そうと思ったら、少なくとも、四か所は特別なガイドが無くても済むはずだ―製糖工場、鉄道駅構内外、山頂(三角点)、灯台。
ということで、初めて九曲堂駅に至り余りの平凡さにがっかりした後は、常套手段として駅の構内、周辺をうろうろしたのだ。で、遭遇したものの一つが、飯田豊二の記念碑だった。後、何軒か駅の裏側に日本家屋が残っていたという記憶があるのだが、その他に何を見たかは印象に無かった。最近、サイト上で他人の書いたものを見て、へえー、こんなものが残っているのだと感心したが今回紹介する缶詰工場遺構なのだが、試しに当時私自身で撮影した写真を検めて見直してみたら、ちゃんと撮影していたので、それにも感心してしまった。
詳細はこの高雄県小中学校に教材を提供している極上のサイト(「高雄県国民中小学/校外教学資源整合」)を参考にして欲しい。高雄県のことなら何でもござれ、このブログを継続する意味すら怪しくなりそうなサイトである。
さて、今回掲載したパイナップル缶詰工場遺構に関してはネット上に色々な紹介が出ているが、このサイトの紹介が最も正当だと思われるので、サイト内の紹介を冗長にならない程度に紹介すると以下の通りになる:
●台湾へのパイナップル(漢語では「鳳梨」)は1650年まで遡れる。大陸からの流入である。
●缶詰の原理は1806年、フランス人Nicolas Appertに依り提唱された。
●1902年(明治35年)に台湾の第一号パイナップル缶詰工場が現在の高雄県鳳山に出来る。優れた保存食、特に軍隊の食糧として重要視され、当時(サイト上では特定されていないが、多分第二次世界大戦終結前までということだと想像する)、台湾はパイナップル缶詰の世界三大供給源の一つであった。
●第一次世界大戦(終結は1918年、大正7年)後の日本国内の不景気を尻目に、台湾のパイナップル産業は隆盛を極め、1924年(大正13年)には大樹郷小坪頂に「大樹鳳梨種苗養成所」を設立、ハワイから改良種を持ち込み、更なる大量栽培に拍車を駆ける。
●1935年(昭和10年)、乱立していたパイナップル缶詰工場を整理し加熱した競争市場を冷ます為に、「台湾合同鳳梨株式会社」を設立、台湾全土で78あった缶詰会社のうち77をこの合同会社に吸収合併させ、14会社に整理した。戦後、この会社は台湾鳳梨公司に引き継がれた。
●合併前の78会社の内、大樹郷には12会社、その内7会社は九曲堂に集中していた。九曲堂の黄金時代である。当時の台湾に於けるパイナップル生産の最大生産地は、彰化・員林を中心とした台中州だった。南台湾では、大樹郷である。(続く)
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彼らに拠ると台湾の果物の改良はとても進んでいるとのことでした。芯まで食べられるパイナップルがその範疇かどうかはわかりませんが。