2010年09月11日
『水の古道』曹公[土川]−2
【写真説明】左写真は台湾鉄路、高雄県大樹郷九曲堂駅前。右写真は今は台湾の国定古蹟である「下淡水渓鉄橋」の設計者飯田豊二の記念碑。同記念碑は駅構内にあり、その周りは公園として整理されている。記念碑自身に嵌め込まれた技師小山三郎による銘文以外に、記念碑が立つ裏側には中国語、英語、日本語による案内プレート、更には、駅前から続く自動車道脇には、「飯田豊二是日本静岡県人、在明治年間負責建設屏東線鉄路。在建造下淡水渓鉄橋時、因為負責尽職、積労成疾、逝世於台南医院、享年四十歳。」(原文は旧字体)とこの記念碑の簡潔な案内が、素焼のプレートに日本人にも判る中文で大書されている。
曹公[土川]−「旧鉄橋」−九曲堂とは関係が深い。台湾のサイトだと、その言及される度合には程度の差はあるかもしれないが、大概一緒に紹介される。
「旧鉄橋」とは、台湾最高峰玉山を源頭とし、最後は、高雄県と屏東県の県境を形成し、台湾海峡に注ぐ高屏渓に掛かる「下淡水渓鉄橋」、通称高屏旧鉄橋のことである。橋梁延長1,526メートル、飯田豊二の設計により1913年(大正2年)に竣工、現役を退いたのは1992年(平成4年)、その後台湾の古蹟に指定された。現在は台湾鉄路局の新高屏渓鉄橋が並行して走る。この二本の鉄橋西岸下の湿地帯が、約115ヘクタールに渡り公園化されている。公園内の最大のアトラクションは、無論、この旧鉄橋であるが、この公園内外には日本時代の遺跡・遺構が多い。曹公[土川]もその一つである。
鉄橋は、高屏渓東岸、即ち屏東側の六塊[厂/昔](ろくかいせき)駅と、西岸、即ち高雄側の九曲堂(きゅうきょくどう)駅を結ぶ。どちらの駅名も日本時代からそのまま受け継がれている。九曲堂とは実に漢語的な地名で気になって、現地まで足を運んだことがある。当時は何も予備知識無しで出掛け、変哲も無い田舎駅の佇まいにはがっかりしたが、駅の構内で、飯田豊二の「記念碑」を見た時には驚いた。なにせ、旧鉄橋とこの記念碑との関係を知らなかった時だった。今では、日本のサイトでもこの両者は盛んに紹介されている。
さて、九曲とは日本風に言えば、つづら折れのことであろう。曲がりくねっていることである。台湾では、タロコの「九曲洞」と彰化県鹿港の「九曲巷」が日本人観光客によく知られている。これらは漢語である。同じように九曲堂の方も考えていたのだが、現地に足を運んでも要領を得ない。台湾語の「九脚桶」の漢語音表記で、これには故事があるようだがここでは省く。要は、大陸とは関係ないということだ。
旧鉄橋は、現在台湾の国家古蹟に指定されている。台湾の古跡指定は、台湾「省」が絡んできただけに判りにくい。1997年以前は、台湾古跡は、国家一級、二級、三級の三等級に区分、指定されてきた。数字が若い程、古跡としての重要度が高い。一級が国政府(内政部)レベル、二級が省・直轄市レベル、三級が県・市政府レベルとされていた。省・直轄市レベルと言われても日本人には判りにくい。今の台湾に実質上省(台湾省+福建省)は存在しないが、法律上はあらゆるところで顔を出す。
1997年以降は、これまでの等級が整理・統合され、「国定古蹟」+行政単位指定古蹟となり判り易くなったが、いまだに台湾のネット上では、以前の等級と現在の区分けが錯綜としている。私自身にしてからがそうで、これまでの記事の中では、殆ど従前の国家等級に従った紹介をしてきた。従来の国家一級古蹟+省括二級古蹟+省定古蹟が自動的に「国定古蹟」に昇格、その後、あらたに国定古蹟は追加されている。省括と省定は何処が違うのか?上記の直轄市との関係は?まあ、同じである。要は、嘗ての国家一、二級古蹟が国定古蹟に格上げされたと理解しておけばよい。
台湾の古跡をざっと眺めるには、以下の日本版ウィキペディア「台湾古跡一覧」が簡便である。便利ではあるが、台湾版「台湾古蹟列表」の焼き直しなので、上述した部分が錯綜としており判りにくいと思う。自分自身をすっきりさせる為には、台湾版「国定古蹟」を参照にするのがよい。
●日本のウィキペディア「台湾古跡一覧」
●台湾のウィキペディア「台湾古蹟列表」
●台湾のウィキペディア「国定古蹟」
因みに、旧鉄橋は、嘗ては国家第二級古蹟、つまり現在は国定古蹟である。(続く)
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