2010年09月04日
『水の古道』曹公[土川]−1
【写真説明】曹公[土川]は台湾三大古[土川]の一つと呼ぶ人もあるようだが、何処でも見掛ける普通の水路である。水利組合に加え、どのレベルの何処の機関が推進しているか判らないが、整備、紹介が進むのには感心している。左写真は水路沿線が整備された曹公[土川]の一例。右写真は何の変哲もない「曹公[土川]幹線六孔制水門」、不可思議な「飲水思源」の碑は民国51年(1962年)の銘があるが、どうも借り物の碑のようだ。両施設とも省道21号線沿線にある。
前回紹介した「白冷[土川]」は掲載した写真も含め正直に人工の水路=[土川]のことを滔々と並べただけで、このブログの読者にとっては誠に味気ない記事になったのではないかと思うが、相手が人工の水路故、おもしろおかしく書くのは難しい。
今回のテーマはもう少し興味の持てる形で書けるのではないかと思うのだが、その前に、最近「水の古道」のテーマで「日経ギャラリー」に記事を掲載して貰える機会があり、その校正の過程で殆どボツになった部分をまず掲載する。というのは、本ブログの左サイド・メニューの中に僅かばかりの紹介は付してあるが、余りにも短い。今回「日経ギャラリー」からの依頼に対しては、その由縁を最大限に気張って書いたものだ。
[プロローグ]「台湾近代化のベースになったのは、台湾総督府が心血を注いだインフラの整備である。日本人は当時の最新の土木・建築技術を台湾に持ち込んだ。台湾各地に今に残る優美で頑丈な建築物群はその典型である。建築だけではない。農業にしろ工業にしろ、水をどう確保するかはどの国でもいつの時代も最大の課題である。日本時代に建設された生活・産業用水確保の為の水利事業施設はいまだに現役で活躍するものが台湾各地で見られる。その数と延長は膨大である。驚くべきは、それらを設計・施工した先人達の知恵と苦労だけではない。それらの施設を今でも滔々と流れ続ける水の清冽なことである。前回二回は人の歩いてきた道を紹介したが、今回は水の流れてきた道、台湾の「水の古道」を紹介する。」
[本文書き出し]「八田與一(はったよいち)と嘉南大圳(かなんたいしゅう)はいまや台湾、日本の双方であまねく知られるようになった。1920年(大正9年)から10年の歳月を投入し完成した満水面積1,000 ヘクタールの烏山頭ダム(珊瑚潭)と総延長16,000キロに及ぶ灌漑水路を設計、施工を指揮し、台南・嘉義に渡る平野を台湾第一の穀倉地帯に変えた八田與一は、その妻外代樹(とよき)ともども悲劇的な最期を遂げたこともあり、台湾の恩人として今は台湾の教科書にも登場する。現在、烏山頭ダムを世界遺産に登録しようという運動すら持ち上がっている。
実は、当時台湾には多くの八田與一がいた。彼らの「作品」はいまだに現役として台湾の大地を潤し続けている。近年、台湾独自の歴史を見直そうという動きの中で、第二、第三の八田與一が台湾の人々によって「発掘」されつつある。
台湾に於ける水利事業施設の整備は、何も日本時代になり初めて着手されたわけではない。その前の清の時代にも営々と行われており、当時の遺構も存在している。日本時代には、それらを再整備し、近代工法を駆使して拡張していった。日本時代に起源を持つ水利事業施設を古蹟と看做すと、その数は枚挙に暇がない。通常、建築物のように話題にならないのは、単に一般の人々の目に触れる機会が少ないからにすぎない。山あいのダムしかり、田園地帯、都市部を問わず張り巡らされた水路と付属施設しかり。今は、文字通り縁の下の力持ちに漸く陽が当たり出し、台湾各地で紹介が進んでいる。台湾では「古圳道」と呼ぶ人もあり、探訪のツアーも組まれ出した。「圳」は日本では死語になってしまったが、人工の水路のことだ。今回は、それらの中からほんの数例を選び出し、出来るだけ多様な形態を紹介することにより、水の古道に触れてもらいたい。」(続く)
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック