【写真説明】左写真は、四林格社旧社入口。中央、右写真は、ひょっとしたら恒春半島パイワン族住居で特徴的な部分かもしれないが自信は無い。通常柱にする石板は薄く広く、そして丈があるのが通常だが、写真に見る物は厚く、丈はそれ程でもなく、且特徴的な切り欠きがある。
前回までは四林格社を「恒春卑南古道」シリーズの中で取り扱ってきたが、今回から、「パイワン族秘道」の方へ移した。前回までは忠魂碑の方が主役だったからだ。
「パイワン族秘道」シリーズ−31で引用した「生蕃行脚」の一節を今回もう一度、引用する:
「私達は此度の旅行に於て、パイワン族蕃人の調査として先づ手始めにリキリキに赴くことにした。同社はパイワン族蕃人として堂々たる大蕃社であって、これから南にある萃芒蕃にしても、大亀文蕃にしても、此社以北の風と大に異った点があり、殊に住家の建築の如きこの以南のものとは全く異にして居る。同族蕃人としての標準的の土俗はこの社の南方と大差あるから、一般パイワン族的土俗が此蕃社で見るを便とする。」
前回引用した理由は、リキリキ社にて典型的なパイワン族習俗を観察できるという森丑之助の見解を紹介したかったからである。今回同じ下りを紹介したのは、リキリキ社以北と以南では「大差」があることに注目したのである。
忠魂碑のある場所からそのまま産業道路を百メートル足らず進むと、コンクリート製の大きな貯水槽があり、そこが旧社への入口になっている。そこは、忠魂碑のある広場とは地続きで、旧社跡と広場の間は柑橘類だと思われる畑になっている。お互いに見通せる。教育所も有していた旧社なので、相当広かったはずだが、今はその全容を想像するのは難しい。
旧社跡は、樹木は切り払われており、外部からの訪問者も容易に歩き廻れる。石板屋跡だけを見て、森の言う南北の相違を判定するのは、専門家ではない私には無論無理な話だ。唯一つ気付いたのは、今回掲載した写真に加えた説明にある、厚い石板の切り欠きである。明らかに梁を支える為の切り欠きであろうが、どうも、森の云う北の旧社でお目に掛かったことがない。私が単に見落としてきたのかもしれない。その内に、研究してみる機会の訪れることを希望するものである。(終わり)
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