2010年07月31日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−27

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【写真説明】再度、旧四林格社付近に残る忠魂碑の紹介である。左写真は忠魂碑を裏側から見たもの。碑と土台の大きさが判るようにデイバックとステッキを添えた。中央写真は、忠魂碑正面の全体と最近になって建てられた四林格事件記念碑。右写真は忠魂碑土台の細部。

四林格社は恒春古道シリーズ−26で紹介した。四林格社というより四林格事件に因む忠魂碑の紹介である。実はこれで私自身が尋ねる必要もないぐらいに考えていたのだが、先般台湾に戻る機会があった際、台湾全土の殆どが雨で全滅、仕方なく比較的降られそうになかった恒春方面へ出掛けた。

それでも主目的は四林格社ではなく、予てより尋ねてみたかった、現在の台東県達仁郷安朔村の旧社であった。予め平日中に公郷所に問い合わせておけばよかったと、現地に着いてあらためて気付かされた。というのは、旧社の場所について誰に聞いても頓珍漢な返事ばかり返ってくる。現在の安朔村は太平洋海岸線から山側に少しばかり入った場所にある。それにも拘わらず、旧社に入るには台湾海峡側の枋山まで戻りそこから山に入らなければならないと最後通牒を手渡され唖然とした。

何故、このようなことになるのか?私は単純に安朔村=阿[朗/土]衛社と繋げていたのがだ、現在の村の住人が尽くその旧社より移り住んだわけではないということだろう。恒春半島内には多数のパイワン族集落があったわけで、複数の旧村から移ってきたと考えれば、まあ、納得できる結果だ。ところで、私の手元にある台湾地図には、阿朗衛と旧安朔は別な場所として記載してある。

前にも記事に書いたことがあるが、ひと頃、恒春半島の山々を集中的に登った時期がある。但し、今日まで恒春半島のパイワン族旧社を尋ねたことは一度もなかった。それで、阿朗衛社を手始めにしたかったのだが、入口で躓いた。そこで気を取り直し、四林格事件の忠魂碑とどうもそこから然程遠くない場所に残っているという四林格旧社を尋ね、ついでに四林格山頂上まで登ってみることにした。

誰でも百聞は一見に如かずというのは頻繁に経験する。件の忠魂碑は全くその通りだった。これまでネット上で閲覧した写真とか、T博士の写真で想像していた碑はこじんまりとしたものだったが、実際のものは実に大きかった。その碑を支える台の立派さには殊の外驚かされた。碑文は表だけではなく裏にも残ってる。破壊された部分が見当たらず、完全な形で忠魂碑が残る。更に、前にも紹介したように、忠魂碑の立つ場所は整地され一寸した広場になっているが、同時に現代の四林格事件記念碑が立つ。ここまでは車で入れる。もう一つ判ったことは、この忠魂碑は建立当時から同地に立っているとしか思えないのだが、その碑が立つ広場は旧四林格社に隣接していることである。

四林格山の東側山裾には長楽村、北側には牡林、四林の二村が並んでいる。最初の長楽村は満州郷に属し、後者二村は牡丹郷に属する。牡丹郷の最南の地である。

忠魂碑に至るには、屏東県道200号線を長楽村から入っていくのが便利かもしれないが、道路上に忠魂碑への道標は見事に一切無いので、とにかく道行く人に片っ端から訊いて廻らなければならない。(続く)
posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 恒春卑南古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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