【写真説明】さて、リキリキ社に関する最後の記事である。
「パイワン族秘道−30」で紹介したリキリキ祠周辺は、二回目の踏査では季節柄、見通しがよくなっていた。但し、私は祠跡そのものには目もくれず、浸水営古道を帰化門営盤跡方向へ辿るのと頭骨架を見付けるのに忙しかった。前者については、モーラコット台風の影響でリキリキ社遥か上方に耕されている畑の下方が大きく土砂崩れを起こしており、そこで古道は完全に断裂していることが判った。頭骨架は、まあ、予想した通り見付けられなかった。これはやはり地元の方に同行を願わない限りまず不可能なことを新ためて認識したに過ぎない。
祠跡に戻ってみると、同行した者が、凄い発見をしたと興奮している。それが今回の左三枚の写真である。「碑」という文字のみが残り、その部分で折れた石碑が倒壊している。碑の本体はその下敷きになっており、しかも、どうも碑の表面が地面に接しているので、何の碑かは判らない。剥き出しになった碑の土台が碑の本体に乗り上げているので、重機でも持ってきて吊りあげなければ碑の正体は明らかに出来そうにない。逆に、よくもこんな形で引き倒しものだと感心してしまう。尤も、刻字は処々に散見されるのでそれらを寄せ集めれば碑が何の為に建てられたか、専門家なら判定出来るかもしれない。「昭和十四年十一月九日改建」の刻字がある。「巡査」の文字があるのは、これまで何回か紹介したことがあるように、当時の理蕃政策の表れだが、同時に家族の名前、年齢まで刻まれていることが、この碑の謂れを探り出す手掛かりかもしれない。尚、その下の「犬」は姓の一部。前回の記事で紹介した「力里抗日事件」と関係があるとしたら、日が隔たり過ぎているような気もするが、そこは「改建」で解決出来るのかもしれない。それ以上は考えなかった。
この碑とは別に、前回見せられた祠の土台周辺にもセメントの枠囲いが残っていることが判った。これで明らかに祠跡だと知れた。右写真がそれである。
教育所から細い急な階段を登ってくるとまず警備道(古道)に出会い、その正面に祠、左手がちょっとした空地になっており、そこに嘗て石碑が建てられていた。以上のような構図は最初の踏査では全然描けなかったものだ。それにしても、第一回目の踏査の際、何故村長さんはこの碑を紹介してくれなかったのだろう?とふと思った。(了)
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