【写真説明】左写真は駐在所跡。右手に見える案内板は本ブログ記事で紹介する合板製。左から二番目はその駐在所跡に生えているコーヒーの木。日本人が持ち込んだそうだ。三枚目の写真は神社と駐在所を結ぶ警備道、浸水営古道の一部。右写真は大社と小社を結ぶ道でこれも浸水営古道の一段。
外部からの訪問者を意識し樹木を切り払ったリキリキ社跡には二基の解説板が敷設されている。一基はステンレス板に、もう一基は合板に、両者大凡似たような変遷史と外部に開放する意義が記されている。春日郷郷長を筆頭にした旧部落整備の面々が刻まれ2008年11月の日付がある合板の方の解説後段は以下のような下りになっている(筆者拙訳):
「力里部落が台湾文化変遷史上被ってきた衝撃は多方面に及ぶ。嘗ては浸水営古道の要衝の地に有った為、オランダ人の攻撃を受け集落を燃やされたことがあった。又、東海岸と枋寮の間を卑南族、阿美族、平埔族、漢民族、そして日本人が頻繁に往来した。大正三年、当時の高圧的な日本統治は痛ましい力里抗日事件を引き起こした。以上のような理由で、本部落の発展と沿革は殆ど台湾文化史の縮図に等しく、他の原住民部落とは明らかに異なる点である。他方、このような豊富な部落史を擁しながら、台湾の歴史文献中で取り扱われてきたスペースはごく僅かであり、後代の人々にとっては汗顔の至りと言えよう。実際、力里部落の歴史と経験は、もしも深く研究・分析されれば、必ずや今日の激動の台湾社会に於いて真の歴史的な価値を映し出すことを可能にするであろう。」
非常に勇ましい内容なのだが、それが明らかに数年を経ずして朽ち果てる粗悪な合板に彫り込まれていることに悲しさを感じる。部落の誇りと外部への開放を高らかに謳いながら、直ぐに以前と同じように欝蒼とした樹林の下に埋没してしまうことが容易に想像されるからである。実際、初めてこの地を訪れてから一年を経ずして再訪したのだが、88水害(モーラコット台風)の影響でこの合板の案内板が立つ場所にはもう入り込めなかった。(続く)
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