2010年04月10日

パイワン族秘道−30:森丑之助「生蕃行脚」の世界-18

Kodou-511.jpg Kodou-512.jpg Kodou-513.jpg
【写真説明】左写真はリキリキ祠の遺構。祠を支えていた台だと思う。初めて訪れた時はこれが唯一の神社遺構だと考えていたが、実は他にも意外な物が残存しているのを確認したのは第二回目の踏査時である。追って紹介する予定である。中央写真は、リキリキ社上部に残る浸水営古道の様子。右写真は学校(戦前は蕃童教育所)跡から神社へ至る階段を仰ぐ。高度的には神社・駐在所→古道(理蕃道)→学校(教育所)→集落の順番である。

涼亭から更に産業道路を少し下った場所で、ここから入った方が近いからという頭目の案内で産業道路を外れ暫く藪が切り払われた部分を中に入ると谷側に下る急な細い階段と手作りの手摺りが見えてきた。それをしばらく下った進行方向左手に小石をセメントで固め階段上になった台があった。神社跡との説明を村長さんから受けた時は、私は鳥居の土台ぐらいにしか考えておらず写真は撮ったが元々何だったかは深く考えもしなかった。この記事を書く為に当時撮影した写真を眺めていて、祠の土台だと気付くぐらい呑気だった。

ブログ「台湾に渡った日本の神々」の金子展也氏に言わせれば「リキリキ祠」跡ということになる。その神社跡付近で嘗ては道路だったと判るものが交差している。日本人がもともと植えたというサンゼリア(チトセラン)の一種?がその道を塞いでいるのだが、浸水営古道、現地導覧図に謂う日治古道である。浸水営古道はリキリキ社を経由していたというのは知っていたが具体的に今どんな形で残り、リキリキ社との物理的な関係はどうなっているのか全然想像が付かず、神社跡を見せられた時より数倍も感嘆した。

更に階段を降り切ると広場に出るのだが、学校跡である。戦後も昭和三十年代前半までは日本時代の教育所から引き継がれた国民小学校だったはずだ。頭目に依ると、日本時代、毎朝学校に出てきたらまず細い階段を登り神社に頭を下げることが義務付けられておりサボると大いに怒られたそうだ。今この学校跡は「公学校文化広場」と呼ばれており、展望台、トイレが設けられ外部からの訪問者の便宜に供されてる。

その学校跡からリキリキ渓に向かう緩い傾斜地に集落は広がる。そこは大社(大集落)の方で、小社(小集落)の方は学校跡から暫く上流側へ辿ることになる。私が以前リキリキ旧社へ最も接近したのは小社上の畑地であったようだ。大社側に残された石板屋の住居群は一軒当たりの面積、つまり家屋面積がこれまで見てきたパイワン族旧社のそれより随分広いような印象を受けた。そこは大社の最上部に当たり、頭目並びに一門の家屋が並んでいた為だろう。何本もうねるようにして根の張り具合を競っているようなガジュマルの大木がその証拠である。パイワン族集落跡のガジュマルの大きさも、恐らく過去見た中では一等だと思う。(続く)
ラベル:台湾 台湾古道
posted by 玉山 at 00:00| 台北 🌁| Comment(8) | TrackBack(0) | パイワン族秘道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
御無沙汰しております。
ブログへのお問い合わせの件、了解しました。

ところで、今月のゴールデンウィークに台湾に取材旅行に行きます。出来れば、シャカロにあった神社遺跡を見たいと思っています。
差支えなければ、どのようにしていくのか簡単に教えていただけませんか。軽装で日帰りを予定しております。
なお、移動は全て電車とバスとなります。
Posted by 金子展也 at 2010年04月11日 21:29
金子様;

その神社遺跡は具体的に何処にあるものでしょうか?

シャカロがシャカロ古道を指しているのであれば、入口は二か所、新竹県五峰郷清泉温泉から石鹿林道を辿る方法、もう一箇所は同県尖石郷養老から入る方法。

私は台湾内の移動には車を使い、バス、電車での移動には全く疎く、アクセスに関しては台湾特捜掲示板等で専門の方に当たるのがよいかと思います。一般の日帰り観光客は養老側から入り白石吊橋まで(片道約10キロ)歩くのが普通ですので、アクセスは養老側が便利なはずです。神社跡が石鹿側に近い場合、軽装は良いとして、公共機関のみを利用して日帰り可能かどうか?は相当難しいと思います。

私の予想では、清泉温泉まではバスがあると思います。養老側は、少なくとも麓の秀巒(河床に温泉あり)まで?清泉温泉から先はどうしてもチャーターした車(四駆)が必要です。

清泉温泉から辿る石鹿林道の道路状態はもともと悪く、昨年のモーラコット台風がどんな影響を与えているのか私は手元に情報がありません。これは調べてみます。

いずれにしても、金子様が探しておられる神社跡が具体的に何処なのか?を教えていただければもっと具体的なアドバイスが出来るかと思います。(了)
Posted by 玉山 at 2010年04月12日 07:37
金子様;

金子様が探しておられるのは「シャカロ神社」跡ですね?それなら、古道上ではなく石鹿林道上脇に残る石鹿駐在所(原シャカロ駐在所)付近ですので、竹東からバスに乗り清泉温泉まで入り[竹東-五峰(上坪経由)-清泉:一日8本あり]、そこで車をチャーターすればOK、日帰り可能ですね。清泉派出所(井上駐在所跡)辺りで口利きして車を手配して貰えばいいのではないかと思います。

社団法人高雄市野鳥学会のサイト内で以下の下りを見付けました。冒頭の登山口とは石鹿林道サイドの古道登山口になります。石鹿駐在所跡は私のブログでも紹介してありますが、付近に神社跡があろうとは知りませんでした。(了)

[登山口之前古道雖有車道經過及人為開墾的破壞,但多少還遺留一些殘跡,其中以霞喀羅駐在所保存最多。道路上方有一棟為民國53 年改建的石鹿派出所,在警備道未開通前是最深山的駐在所,大正6 年及9 年發生兩次霞喀羅事件後,迫使當局在此裝置兩門大砲(現砲台遺址在車道下方),專門對付附近的霞喀羅部落群。另車道上方原也殘存有200 多公尺通到霞喀羅神社及忠魂碑的表參道,現也遭毀壞只留殘跡,可供緬懷而已。]

弊ブログ石鹿駐在所紹介→ http://taiwan-kodou.seesaa.net/article/25887485.html
高雄市野鳥学会→ http://www.kwbs.org.tw/
Posted by 玉山 at 2010年04月13日 12:12
西様
なんとかお陰でシャカロ神社を確認してきました。少しお金がかかりましたが竹東からタクシーで十八兒村経由で行ってきました。石鹿駐在所はまだ残っていましたが、残念ながら、神社遺跡はありませんでした。
過去のシャカロ事件がこのような場所で発生したのだと思う時、ジーンと胸が熱くなる思いでした。
色々情報有難うございました
Posted by 金子展也 at 2010年05月15日 08:45
金子様;

お疲れ様でした。

私も随分長い間、シヤカロ方面には足を延ばしていません。次は何時になることか?

リキリキ祠はその後記事と写真をアップしておりますので、ご参考下さい。やはり、セメント作りの台は祠の土台だと思います。

今後も金子様のブログを楽しみにしております。(了)
Posted by 西豊穣 at 2010年05月15日 10:28
南投水里 台電 神社 金子展也さん(2010.05.01)
http://www.youtube.com/watch?v=GzlEx5LmPS0
Posted by 陳 凱劭 at 2010年06月05日 11:39
西 豊穣 さん、

千々岩助太郎(1897-1991), http://chijiiwa.kaishao.idv.tw/
日本時代台湾の登山家,台湾山岳会常務理事(会長=沼井鉄太郎)、台湾の高砂族住家研究(1932-1947)、建築教育家,建築家、日本九州産業大学学長(1966-1970)、台湾の九族文化村高砂族住家監督(1986)

思い出の山々(1978出版, 日本福岡)
COVER:
http://chijiiwa.kaishao.idv.tw/DSCN5969.JPG
Map in the book:
http://chijiiwa.kaishao.idv.tw/map-1.jpg
http://chijiiwa.kaishao.idv.tw/map-2.jpg

Please send your Takao home address, I will send you a copy(not original) of this book for free!

私のメールアドレス: http://kaishao.idv.tw/for_mainpage/email.jpg
Posted by 千々岩助太郎 後援会 (会長 陳 凱劭) at 2010年06月05日 11:58
台湾原住民族との交流会、世話人代表千々岩 力教授(千々岩助太郎の四子)と陳 凱劭
(2006.08;台湾日月潭九族文化村)
http://chijiiwa.kaishao.idv.tw/DSCN4886.JPG
Posted by 陳 凱劭 at 2010年06月05日 12:45
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