2010年04月03日

パイワン族秘道−29:森丑之助「生蕃行脚」の世界-17

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【写真説明】左写真は「浸水営古道−18:帰崇段−2」で紹介した貯水タンクから帰化門営盤跡への道を少しだけ辿った場所、即ち現代の大漢山林道とリキリキ社へ向かう浸水営古道分岐点から俯瞰した潮州市街地と小琉球。森、鳥居も眺めた風景。中央写真は、リキリキ社上方に設けられた涼亭。ここまで行き着くのに相当な年月を要した。同写真最後方右側雲の掛かった嶺は南大武山。右写真はその涼亭からの眺望。手前の欝蒼とした茂みがリキリキ社上部。真ん中の稜線は石可見山へ繋がる。その稜線裏側にチカタン社がある。最後方の稜線左側にパイルス社がある。三社の位置関係を視覚的に示そうと試みた写真。

森と鳥居が「生蕃行脚」で訪ね歩いた集落の中で私が唯一辿り付けていなかったのがリキリキ社である。つまり、これまでリキリキ社に関する記事・写真を随分ブログ中に掲載してきたが、それらは私のこの旧社に対するラブレターみたいなものである。

私が台湾原住民に興味を持ち出したのは、台湾古道に興味を持ちだした後である。リキリキ旧社(現在は屏東県春日郷力里村の地へ移遷)を本気で訪ねてみようと最初に思い立ったのは、2005年に入ってから。テレビの或る番組でリキリキ旧社を力里村の人々が訪ねる映像をちらりと見たことが切っ掛けである。爾来、自分自身で探し当てることしか考えておらず、他方、大凡の位置は判っていたにも拘わらず、ことごとく失敗した。最後は、力里村現村長さんに案内を乞うたことは「日経ギャラリー」の「台湾古道を行く 第2回目」に書いた通りである。それ以前、「台湾の声」に「パイワン族秘道、森丑之助『生蕃行脚』の世界」を投稿したのが、2008年10月、「日経ギャラリー」の記事は、その「台湾の声」への投稿をベースにしている。「台湾の声」への投稿全記事は既にこのブログでも紹介した。しかしながら、「台湾の声」へ投稿した時点では、実はリキリキ旧社核心部(周辺は始終徘徊していた)には行き着けておらず、片手落ちだという思いが強かった。やっと辿り着いたのが2009年7月、思い立ってから4年掛かったことになる。

力里村の村長さんは頭目だというのがすぐ判るのはその顔立ちである。以前このブログでも紹介したパイルス社の頭目と同じ顔立ち、大柄である。電話で予め打ち合わせておいた時間に待ち合わせ場所に行きつけなかった我々に数度電話を掛けてきた。几帳面な性格である。その内、雨が降ってきた。こんな天気の日に山に入るのか?という顔をされたが、何せこの機会を外すと次何時になるのか判らないので、頭目の顔の表情から読み取れるメッセージは敢えて無視した。

前回「パイワン族秘道−11」に掲載した写真を撮った際に行き付いた場所から更にリキリキ渓側に下った場所に、それまでどうしても行き着けなかった涼亭があった。方向は間違っていなかった。唯、大漢山林道から産業道路伝いに渓谷をどこまで降りてしまえばいいのか?が要領を得なかった部分だ。

涼亭はリキリキ社を見下ろす場所にたっており、そこからだとリキリキ社、チカタン社(老七佳)、パイルス社(白鷺)の位置関係が実によく判る。大社だったリキリキ社を小さなパイルス社は恐懼していた様が「生蕃行脚」の中に描かれているが、深いリキリキ渓谷、その向かいに石可見山へ連なる稜線が壁のように立ちはだかり、更にその向こうにはチカタン渓がある。パイルス社はそのチカタン渓から立ち上がる山の頂上付近だ。森丑之助は、リキリキ社とパイルス社との位置関係をさらりと「渓流一つ隔ててリキリキ社と対峙して居る」と言いのけていることに驚くのが私を含めた現代人の体力の無さだと思う。このように旧社の間の物理的な障害物は多いが、お互いにも見渡せる位置にあることも確認出来た。

ここまで書いて想い出したことがる。私が高校生の時、團伊玖磨を学校側で招請して講演して貰ったことがある。演題は覚えていない。丁度彼が五十歳を越えた頃ではないかと思う。当時は既に日本を代表する作曲家であり、且つ「パイプのけむり」で著名なエッセイストだった。話の中で大凡次のような部分だけを今でも覚えている:

「或るカメラマンとアフリカに行った。飛行機を待っていると、現地の案内人が、飛行機はもうすぐやって来ると言う。音も聞こえなければ機影も見えない。どうして判るのかと聞くと、エンジンの音が聞こえると言う。私には聞こえない。すると、カメラマンが君は音楽家のはずだがとからかう。暫くすると、また案内人が、もうすぐやってくると言う。未だ音も聞こえなければ機影も見えない。どうして判るのかと聞くと、飛行機があそこに見えると指を指す。私にもカメラマンにも見えない。そこで、私はそのカメラマンに言ってやったー君はカメラマンのはずだが。」

目と高校時の話が出たついでに、もう一つ: 私の高校時の或る同級生の叔父は以前ゼロ戦のパイロットだったそうだ。彼はよく、昼間でも星が見えると言っていたということだ。(続く)
posted by 玉山 at 21:26| 台北 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | パイワン族秘道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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