【写真説明】左写真は屏東県牡丹郷四林村入口、同満州郷の郷公所から県道200号線を北上すればすぐに辿り着く。同村に残る「忠魂碑」、四林格事件での討伐側である日本サイドの殉職者慰霊碑。右写真は、最近、この忠魂碑と並べて建立された四林格社側の犠牲者の慰霊碑。大概は日本時代の慰霊碑は打ち壊されるか、抗日記念碑に模様替えさせられるのだが、これは珍しい例である。
恒春半島は台湾の最南なので無論暑い。今は殆どを大陸蘇州で過ごしているのでこの暑さが恋しいというより熱望しているような状態である。恒春半島は嘗てパイワン族の楽天地だった場所だが、未だに正真正銘の旧社を訪ねる機会が無い。とにかく蒸し暑い時に汗をだらだら垂らしながら鬱蒼とした草木の間に分け入りたいと切に冀っている。他方、同地に残る日本人に依る日本時代の遺物はこれまで紹介してきた通り、大概見てきた。一つだけ残っていたのが、今回紹介する忠魂碑である。当分行けそうにないと思ったので代わりにT博士に行って貰った。今回掲載の写真はT博士自身に撮影によるものだ。随分撮影の腕を上げたと思う。
四林格社は今は屏東県牡丹郷四林村で、日本時代からそう表記されていた。或いは、シナケ社である。大正13年台湾総督府警務局出版の30万の1台湾全図では「シラーケー」となっている。牡丹郷は、北から、旭海、東源、牡丹、石門、高士、四林の六村から構成され、郷公所(役場)は牡丹ダムがある石門村に置かれている。日本時代は頂加芝莱社(チヨウカチライ社等)と表記されていた。「等」と書いたのは「チョウカチライ」等の表記もあるからである。シナケ社が四林格山の北麓に位置していたように、牡丹郷内の旧社は各々山腹に集落を有しており、北から、女仍山(ニイナイ社、804メートル)、牡丹池山(564メートル)、牡丹湾山(379メートル)、高士佛山(クスクス社、514メートル)、茄芝莱山(527メートル)、八瑶山(パヨウ社等、413メートル)、四林格山(592メートル)、萬里得山(522メートル、満州郷)は、日本時代表記をそのまま引き継ぎ嘗てのパイワン族旧社が麓に展開していたという意味では、私は機会があれば全部登ってみたいという誘惑に駆られる。実際これらの山々はよく登られている。私の場合これまで高士佛山と萬里得山しか登る機会に恵まれていない。因みに、萬里得山は墾丁国家公園の最高峰、標高が500メートル強しかないので最高峰という表現が相応しいかどうかは別にして事実である。以上は私の今後の踏査行の為の覚書みたいなものだ。
四林格事件とは、台湾総督府の所謂「理蕃」政策下、原住民が銃火器没収の命に抗した騒擾事件の一つで各地で頻発した。日本が台湾領有を開始した当時は既に原住民の間に銃は相当浸透しており狩猟を日常とする原住民には生活必需品だった。どのようにして銃が原住民の間に行き渡って行ったかは森丑之助が著名な講演録「台湾の蕃族に就いて」(1913年)の中で活写している。これらの騒擾事件は中国国民党の歴史教育の中では「抗日」事件として取り扱われており、四林格事件は台湾ではよく知られており、サイト上での紹介は多い。それらの中で、恒春半島に於ける歴史遺産研究としては秀逸な「墾丁国家公園及近隣地区歴史古蹟現況調査」(林瓊瑤著:2002年12月)の紹介が正確だと思われるので、以下拙訳で転載する。[ ]内は筆者註:
「1914年(大正3年)、台湾総督府は「理蕃政策」を実施開始、台湾南部原住民の所有する銃火器の没収の命は、三地門以南の原住民各社の不満を引き起し、霧台警察駐在所、官舎を攻撃、加えて巡査等11人を殺害した所謂「南蕃事件」に発展した。同年10月中旬には、四林格社の人々が万里得駐在所に潜入、壮丁[日本領有時代の保甲制度下の壮丁]1人を殺害、更に蚊蟀駐在所[蚊蟀は満州の古名、蚊蟀の台湾語音訳を基に日本時代に満州と改めた]と旧蚊蟀支庁官舎を焼き払い、一時は全恒春地区を震撼させた。これを受けて総督府は台南方面から討伐応援隊を恒春に派遣、四林格社の討伐を開始、これが「四林格事件」である。1916年(大正5年)に至り、恒春庄長陳雲士は藤田荘吉巡査の指揮の下、老佛山に於いて四林格社頭目等を襲撃、本事件は終了する。1919年(大正8年)、日本人は負傷、死亡した巡査と討伐隊員の為に四林格社の地に慰霊碑を建てた。」
林氏が何故恒春よりはるか北側に位置する三地門から書き起こしたのか判らないし、応援を求めたのは碑文を見るとほぼ台湾全域からである。
以前紹介したように恒春城西門脇の「恒春鎮石碑公園」に残された碑群の破損状態が余りに酷かったので、四格林事件「忠魂碑」も相当な破損を予想していたのであるが、左に非ず、その理由はよく判らない。加えて、日本時代の忠魂碑には手を付けず、傍に、犠牲になった原住民側の慰霊碑を建てている。明らかに片手落ち、不公平だからというわけだ。
「大正八年四月十五日建設」の「忠魂碑」の下段には、討伐側の殉職者(碑文では「戦死之士」)12名の派遣元庁・職制・氏名、並びに碑建立者(碑文では「建設者」)の所属丁・職制・氏名が刻まれている。犠牲者側の派遣元は宜蘭、花蓮、桃園、台南、台東、阿[糸侯]の各庁、職制は、巡査、警手、隘勇となっている。他方、碑の建立に当たったのは恒春支庁、筆頭は庁長、次席は警部である。抗争現場が恒春にも拘わらず、犠牲者が他丁所属者のみであるのは合点がいかない。
上記の林氏の短い説明文を読むだけでも、台湾研究者の多くが言う「(当時の)台湾の統治は警察統治」であることが覗い知れるし、忠魂碑の碑文もそれを証明している。これは以前書いた「恒春国語伝習所猪労束分教所之跡碑」と通じるものがある。(了)
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